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好きな映画の話:「ファースト・カウ」とケリーライカート
「ファースト・カウ」をみたので、思ったことをつらつらと。
あらすじ
物語の舞台は1820年代、
西部開拓時代のオレゴン。
アメリカン・ドリームを求めて
未開の地にやってきた料理人のクッキーと、
中国人移民のキング・ルー。
共に成功を夢見る2人は自然と意気投合し、
やがてある大胆な計画を思いつく。
それは、この地に初めてやってきた
“富の象徴”である、
たった一頭の牛からミルクを盗み、
ドーナツで一攫千金を狙うという、
甘い甘いビジネスだった――!
不思議な映画だった〜
友のために全力で走る姿はないけれど、ふたり寄り添い眠る姿はある。
そういえば、ケリーライカートが撮る人間には温度がないような気がする。
熱いも冷たいもないし、
人とその関係を強引に分類するようなことをしない。
その代わり、手の動きやまなざしや、沈黙に、その全てがつまっている。そこに何を読み取るかは人それぞれで、たとえば「友達」の言葉が意味するものは見る人の数だけある。
静かに進む物語の中で、ときおりドキリとするような場面があったりする。まるでスローモーションのようにゆっくりと時間が流れて、その先に何があるのか、期待とも、恐れとも違う感情が生まれる。
たとえば「オールドジョイ」で旧友のふたりが山奥にあるひっそりとした温泉に入っているシーン。
たとえば「ウェンディアンドルーシー」で主人公の女の子が相棒の犬を見失い、すがる思いで保健所を尋ねた際の、ゆっくりと横スクロールで保護犬たちが映し出されるシーン。
たとえば「ファーストカウ」でいかだにたった一頭、牛が浮かんでいるシーン。
わたしは突然、知らない世界に放り込まれたような気分になる。
わたしのなかにあるそれらと、映し出されるものがなかなか結びつかなくて、知っているはずの温泉や犬や牛が、その存在と意味以上のなにかを含んで膨張して、わたしのなかに広がっていく。それでわたしがいつも見ていたものは、ほんの僅かな部分だけだったことを知る。
なんて小さくて大きな世界なんだろう。
登場人物たちはみんなどこかに向かっているけれど、いつ、どこにたどり着けるのかはわからない。映画がおわってもそれは分からないままだ。はじまりからおわりまで、そしておわってからも、彼ら彼女らは限界と可能性のはざまで流れつづけてる。現実を生きるわたしだってたぶん、そうなのだ。
人生は、生活は、つづいてゆくものだから、だれにも(物語をつくった張本人でさえも!)それは終わらせられないのだ。
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