コンプレックスとグローバル
今度はニュージーランドの話。
大学2年生の時、思い立ってバイトを3つ掛け持ちして貯めた20万円で、こんどは一人で2週間ニュージーランドに行った。なぜ行こうと思ったか動機は思い出せない。でも行ってよかった。価値観が変わった。
私はとても地味な顔をしている。ブスというほどではない(と思う)が、私が大学生だった2000年代前半は浜崎あゆみがそのでかい目をひんむいて映るポスターが街中に溢れており、私もなんとか目を大きくしたくて四苦八苦していた。中学高校ではアイプチでいつも瞼をかぶれさせていたので、大学入学を機に母がお金を出してくれ、プチ整形もしている。しかしプチはあくまでもプチである。ちょーーーーーーっと大きくなったかな?くらいでたいして地味さは払拭されない。
私は素晴らしく美しい海辺の小さな町に語学学校を見つけ、そこに短期で通うことにした。
クラスはテキストは使わず、その日の「お題」を先生が適当に出して、それに対してみんなが自由に自分の意見を言うという、まぁハードな、英語に苦手意識のある私にとってはかなりチャレンジングなスタイルだった。
クラスメイトはドイツから数人、スイスから数人、韓国の男性がひとり、そして私。環境問題について、死刑について。ディテールは忘れてしまったけれど、不思議なものでどんなお題でもなんとなく「西・東」に意見が分かれる。人の思考回路のベースになるのは、やはり育った社会によるところが大きいようだ。
ある日のテーマが「美容整形」だった。
言わずと知れた美容整形大国韓国出身の彼と、そもそもその時点ですでにプチ整形済の私は当然のごとく「自分に自信がつくのだからよいことだ」と主張した。ドイツ、スイスのメンバーは「個性の否定は良くない。誰でもその人が持った魅力がある」というような言い方をした。
私がさらに畳み掛け、いかに整形が自信を持つために必要か、をわーわー騒いでいたら、隣の席に座るドイツの男の子がその大きな目を見開いて言った。
「君の目は小さくてとても美しいじゃないか。自分で分からないのかい?」
は?小さくて?美しい?
は?
どういうこと?
目は大きくなきゃいけないんじゃないの、、、?
え?違うの、、、?
あまりの衝撃にその後なにを話したかまったく覚えていない。
しかしそのドイツの彼の口調や私をまっすぐ見る眼差し、教室の雰囲気は20年近くたった今もはっきり覚えている。
人にとっては些細なことかもしれない。
しかし、目は大きくなければならないと信じ、その標準に合わせることに必死だった私にとってこの発言は事件だった。
目は大きくなくてもいいんだ。
もしかしてあれもこれも、私が絶対と思っていることって、絶対じゃなかったりする、、、?
そして、そう、絶対じゃなかった。
その海辺の街では老若男女、道路を裸足で歩いていた。危ないものなんかないよ、とみんな笑っていた。
セルライトなんかなんのその、豊満ボディの女の子たちがビキニではしゃいでいた。
ホストファミリーは年配のカップルで、おじさんのほうは妻とまだ法律上は別れておらず、大病を患う妻は施設に入っていてそこに着替えを届けるのは2人のルーティンなのだと言っていた。
なんか、なんか、いろいろ驚いた。
「こうあるべき」に固執するのって、めちゃくちゃ効率悪くてカッコ悪いことなんじゃないか。
人の評価や、誰が決めたかももはや分からない価値基準をベースにするのって、なんか、ダサいよな。
ニュージーランドで過ごしたたった2週間は、私の思考回路を解放してくれた。
自分と視点の違う人たちと触れることは、コンプレックスやがんじがらめの辛さを解決するきっかけを作ってくれる。
モノカルチャーで同調圧力の強い日本人にとって、グローバル視点が必要だと私が強く思うのはこの経験からだ。少し触れるだけで、こんなに生きやすくなる。
そうして今日も私は、自分の見た目をたいして気にもせず、地味なまぶたを擦りながら一日を始める。