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私が嫌いな私のこと Part2


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小学校を卒業した私は、そのまま地元の中学校に進学した。中学受験をしようとも思ったが、自分の学力ではどこの学校も入れる気がしなかった。

この時、私を気持ち悪いと罵った女子が同じ中学に行くことはなかったのだが、懸念点が一つだけあった。それは、同じく私に嫌がらせをしたクラスメイトの男子が受験に失敗して、私と同じ中学に進学することだった。
2月頃だっただろうか。廊下に出ようと教卓の前を通ると、ページの開かれた連絡帳が教卓に置いてあった。別に詳しく中身を見ようとはしなかったが、「受験で不合格になったため、○○中(地元の中学校)への進学が決定しました」という、恐らく母親であろう字と、例の男子の苗字がハッキリと見えたのだ。

最悪だった。当時の私からすればそれこそ絶望以外の何物でもない。こちとら小5からずっと嫌がらせを受けてきたのにまた3年間も苦しみを味わわされるのか。せめて同じクラスにだけはなりたくない。なったら死ぬ。そんな気持ちで私は新品のダサい制服を着て、中学生活の幕を開けるべく、校門をくぐった。

幸いにも、中学3年間ともにその男子と同じクラスになることはなかった。が、その代わり私のクラスには、3年間それぞれ違った問題児の女子生徒が在籍することとなってしまった(詳しいことはかなり長くなるので割愛)。
入学当初は思ってもみなかったが、今考えると終わってるなぁという感想が出てくる。私の通っていた中学は、周辺の4つの小学校のある地域から全校生徒が1000人くらい集まっている学校で、通常1学年9クラスだが、1学年に10クラスある年もあった。その割に教室が足りなくて仮設校舎なんかもあったり、校庭も狭いから放課後は運動部がひしめき合う、いわば人口密度の高い学校だった。
そんな環境だから当然様々なタイプの子どもが集まってくるのも当然。真っ当な家庭で生まれ育った子もいれば、母子家庭や父子家庭、中には機能不全家族で育ったような子もいた。しかし、当時の私は「人数多い学校なんだ!じゃあ友達いっぱいできるかも!」などと至極浅はかな考えをしていたため、卒業する頃には地獄を見ることなど何一つ考えてはいなかった。当然といえば当然だが、私に地元の友人はいない。

さて、そんな感じで問題児と何かしらの小さなトラブルを起こしながらも私は中学3年生となった(本来は中2の頃のことも書きたいが、長くなる上に今回のこととはあまり関係がないため割愛したい)。
中3の一大イベントといえば修学旅行であるが、私の自己肯定感を下げる大きな要因となったのはおそらくその後となる。
6月の初めごろに修学旅行が終わり、その直後に定期テストが行われる(私の卒業した中学は2学期制だったため、ちょうど6月の中旬ごろに前期の中間テストが行われる)と、修学旅行で同じグループだったメンバー(全員女子)で「修学旅行とテストの打ち上げにカラオケに行こう」という話題が持ち上がった。今考えると行かなきゃよかったと後悔しているのだが、私は愚かなので、お金もないのに軽率に「よし!行こう!!」などと言ってしまったのである。そんなわけで、当然カラオケの料金を払えるはずもなく、メンバーの1人に立て替えてもらった(この一件以降、私は二度と他人とのお金の貸し借りはしないことを肝に銘じた)。その後、当然すべて返済したのだが、これがきっかけだったのかはわからないが、夏休みが明けてからというもの彼女らからの嫌がらせが始まったのだった。

自分の体型を揶揄われるのはよくある話だが、それで不本意なあだ名をつけられたり発育測定で私の記録用紙を見たのかその体重を大声で話されたことがあった。あだ名については全く名前に関係ないもので、ここに出すことすら憚られるうえ、私について私の目の前で悪口を言うものだから、もはや名前を言いたくないのか「誰かさん」とまで呼ばれたこともある。で、道を歩いていて私が彼女らの近くに来ると(これも不本意ではあるが)「〇〇(当然私のこと)ヤダ」とか言われていた。私だってお前らのこと今でもずっと嫌で嫌で仕方ないよ。
それからここにどうしても書いておきたかったのは、10月に行われた席替えのこと。担任ガチャ、クラスメイトガチャ、座席ガチャといった具合に学校生活において学生は何度もガチャを引いているが、その中でも座席ガチャ——つまり席替えは1年のうち何回も行われるものだ。では、なぜ10月の席替えが嫌だったのか。答えは明白だ。私の席の前後に例のメンバーがいる形になってしまったのだ。彼女らは新しい席で「うわ最悪」とか「マジ絶望的」とか「この世の終わり」とか言っていた記憶がある。私だって最悪だったし、マジ絶望的だったし、この世の終わりを感じていたんだ。このあと、メンバーの1人のTwitter (今はXと名称が変わっているが、当時はTwitterという名前だったのと私がXと呼びたくないからTwitterと呼ばせてほしい)でも「今の席やだ(泣き顔の絵文字)」といったツイート(これも今はポストという名称だが略)がされていたのを私はしっかり見ていた。うん。私も嫌。授業中は私が彼女らのちょうど間にいるせいで(むしろおかげで)前後の会話がしにくいから私は「巨大な壁」とも言われた。
極め付けは給食の時間。ただでさえ給食センターで作っている給食は美味しくないと評判だったが、彼女らは私の席の近くで給食を食べることになるから「〇〇のせいで給食が腐る」と私の目の前で言い放ったのだ。私はいつしか、有機物を腐らせる能力にまで目覚めていたらしい。まぁその腐っているらしい給食を平気で食べているのも、今となっては滑稽なこと極まりないのだが。おなか壊さなかった?大丈夫?

あ、心配する価値もなかったか。

そんな感じの学校生活を過ごしていると、自己肯定感はマイナス方向に限界突破していつしか何も感じなくなっていた。が、とりあえず、アイツら嫌いだから絶対高校は違うとこにしようと考えていた私は、制服のデザインからして奴らの誰も行こうとは思わないだろうという期待を込めて(何よりも私が見学して楽しかったことと、自分の実力に見合っていたことから)、進路面談でクラスの誰も志望していない女子校を受験することを決めた。
結果として私は第一志望としていたその高校に合格して、遅れてきた青春を取り戻すべくJK生活を謳歌することになった(高校生にもなると同じような学力の人が集まってくることもあって、似たような人が多かったためにいじめもなく平和に過ごせた。みんな優しくて助かった)。一方、私を散々に卑下した者は皆第一志望には落ち、受験の結果報告で落胆していた。

そうして平和な高校生活を続け、どうにかこうにか大学生になることもできたわけだが、子どもの頃から受け続けた傷は10年近く経った今でも癒えてはいない。そんな状況で就職活動だ。自己肯定感もクソもない私に、自己PRにガクチカなんて、わかるはずがない。大学の就職課に進路相談をした際も、自分の長所がわからないと言えばカウンセラーを困惑させた。大学時代に課外活動なんてしたこともない。そんな私が面接をしようものならそりゃ落ちる。やりたいことなんてないし、未来に希望も抱いていないのだ。
それでも大学4年生の12月。卒業論文も提出が間近に迫っている時期に私はようやくある会社の内定を掴み取った。今思うとどうしてもっと真面目に就活しなかったんだと過去の自分をぶん殴りたかったが、卒論と並行しての就活ということでかなり焦っていたところもあったのだろう。勢いで入社を決めたが、2週間で適応障害を発症した私はその会社を1ヶ月で退職した。

今でもずっと、私は私のことが世界で一番大嫌い。世に蔓延る「自己肯定感の上がる」とSNSでバズってるような歌も嫌い。自分かわいい最強♡だとか私っていい女でしょ?みたいな歌詞は反吐が出る。ショート動画でそんな歌が音源に使われた動画はすべて「興味なし」するくらいだ。同じようなのばっかりで気持ち悪くなる。メイクだって、「かわいい私をもっとかわいくする」みたいな目的じゃなくて「腐り切った顔面をどうにか人様に見せられるくらいにする」ためのものであって、そこに自己肯定感もクソもない。とりあえず、メイクしてみて「まぁすっぴんよりマシにはなったかな」と思えればいいや、くらいの精神だ。
そんな私が、今後どう生活していくのか。転職活動をどうにか進めていかないと、と静かに焦りながら2024年のGWは過ぎていくのだった。


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