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私が嫌いな私のこと Part1

きっと私が自分のことを好きだと言える日は一生来ないのかもしれない。

大学生の頃、心理学を専攻してたわけでもないのに、なんとなく面白そうという安直な理由で心理学の入門的な授業をとっていたことがあった。もうその授業の内容はほとんど記憶の彼方に吹き飛んでしまったが、自分の性格を分析する、という内容のレポート課題だけはやたら強烈に印象に残っていた(当時2020年、MBTIも知らなかった頃)。

とはいうものの、それは設問の内容がどれくらい自分に当てはまるかを自己診断するもので、大した信ぴょう性はなかったのかもしれないのだが。

その結果、私はとにかく「自己肯定感が低い」人間であることがわかったのだった。いや、もともとそうだろうなぁとは思っていたんだけど、他の受講者に同じような結果の人はほとんどいなかったようで、私ほど自己肯定感の低い同世代の人間は少ないんだ、と少しだけ落胆した。

今になって、どうして私はここまで自己肯定感が低いのか、ネガティブ思考に捕われまくってるのか考えてみることにする。

たぶん、私のネガティブ思考は幼稚園〜小中学生の頃に起因するのだと思っている。
私は幼稚園に入る半年前、3歳の頃に自閉症スペクトラム(2013年からの呼び方なので当時2004年頃はどういう風な呼ばれ方だったのかはわからない。知的障害はないのでたぶん当時で言うアスペルガー症候群か広汎性発達障害のどっちか)と診断された。その事実を知ったのは大学4年になる少し前の春休みだったのだが、今までの生きづらさに名前があったことに私は少し安堵していた。

友達とのコミュニケーションがうまくいかないこととか、同年代の子に比べてやたら音に敏感なこととか、私がとにかく他の子と明らかに違うことを心配した親は療育センターに通うことを決めたのだという。
そんな理由も目的も知らないまま私は遊びに行く感覚で毎週火曜日、療育センターに通っていた。社会の基本的ルールとか、周りの友達との関わり方とか、そういうのを覚えていったような記憶がある。

そうして1年ほど経ったある日。幼稚園で周りの女の子たちの顰蹙を買いながらもどうにか日々を過ごしていた頃。私が同じ療育を受けていた他の子よりも(少なくともコミュニケーションに関する)症状が軽いからもう大丈夫だろうと判断されたことから、私は療育センターに通うのをやめた。

私が余計なことを言って周囲の空気をざわつかせるのなら、何も言わないでひたすら空気でいようと考えたのもこの頃だった。とにかく目立たず、何も言わず、空気を乱さないように。私の発言は人を怒らせてしまうから。そんなふうに色んな人から言われたような記憶がある。外では絶対喋っちゃダメ。感情を表に出さないように。誰にも怒られないようにすることに、当時の私は必死だった。
それでも年中に進級した頃、少しだけど周りの子とおしゃべりできるようになった。自分から話しかけるのはやっぱり勇気がいることだけど、遊びに誘ってもらえるようになったり、ごっこ遊びだってできるようになった。年長になると、テレビで覚えたお笑い芸人のギャグなんかも積極的に披露したりするようになった。この頃、私の中で折り紙で色々作るのがマイブームになっていた。

さて、そんな私も少しずつコミュニケーション能力が身につき小学生になったが、幼稚園までの私の経験は、小学校ではほとんど発揮されることはなかった。
私が何か面白い(と自分だけが思っている)ことを言えば、クラスの空気が凍りついた。私がこうすればいいと思ったことをすれば、周りの顰蹙を買っていた。意味も知らない言葉を会話に多用しては、周りを困惑させた。幼稚園で漢字の読み書きが少しできたことから、朝顔の観察カードに「はやく花がさいてほしいです。(原文ママ)」と書いたら、担任からまだ漢字は習ってないから使うなと言われた。確か4月から5月くらいだったか。どうして習ってないからって漢字を書いちゃいけないのか、私にはわからなかったし今でもわからない。

小学校は私にとっていわば、幼稚園までの常識が一切通用しない場所。私は周りから「変な子」というレッテルを貼られて6年間を過ごすことになった。何か言ったらまた周りがシラケるから、また黙っていることを選んだ。
もちろん話しかけられたら答えはした。だけど基本的には黙っていた。何も言わなければ、周りが変にザワつくこともないから。そうして過ごしていると、小学校高学年頃には私のことを「ずっと黙っているから何しても大丈夫だろう」とか考えたのか、クラスメイトから執拗な嫌がらせを受けるようになった。

給食のデザートのフルーツは、当番が私の分だけやたら粒の小さいものだったり質の悪いものばかり選んでいた。私が質問の答えを考えていると、「日本語わかる?」とか「日本語喋れなくなっちゃったの?」とか聞かれたこともあった。男子からは名札の針で腕を刺されたり、頭や腹を蹴られたり殴られたりもした。女子からはバイ菌扱いを受けて、私がぶつかった場所を手で払われたり「気持ち悪い」とまで言われた。校外学習のグループ決めは、好きな人同士で組む方針のせいで周りがどんどんグループを組んでいく中で私だけが孤立して、人数が足りないグループに仕方なく入れてもらうことがほとんどだった。どうしてくじ引きにならないのか、ずっと疑問だった。

そんな状況をどうにかやり過ごして、惰性で学校に通い続けた結果、小学校を卒業する頃には皆勤賞までもらった。そこに嬉しいとか楽しいという感情は、当然なかった。いや、卒業する直前はなんとなく楽しかったかもしれないけど、総合的に見ればやっぱり楽しいよりも楽しくないの方が勝っていた。

かなり長くなっちゃったので小学校卒業で一旦締め。続きはまた次回!

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