見出し画像

ホームで考える

朝の支度をしていると、ニュースで私の利用する路線の人身事故が報された。

まじか、と思いながらメイクをする速度を早め、二本程早い電車に乗る為にバスを調べる。朝から辞めてくれ〜とぼやきながら準備をして家を出る。

目的地に向かいながら、考える。
どうしてその人は死んだのだろう。
事故?自殺?
自殺なら、何でこんなに人に迷惑をかける方法を選ぶのだろう。賠償金だかなんだか、結構必要らしいとも聞くが、遺された家族のことなどは考えなかったのだろうか。
Twitterを開くと心無い言葉が並んでいる。
「死ぬなら他でやれ」「勘弁してくれ」
酷いなあ、と思いつつ私の中にある感情もこれらと似た形をしていた。

私なら、と考える。
もし私が死ぬなら、どうにもならなくて自ら死ぬ道を選ぶなら、とりあえず電車は選ばないな。いやでも、例えば社会に、周りに、最後の足掻きで迷惑をかけて死にたいと思えばそうするかもしれないな、と。そう考えていた。

しかしながら、私も就活やら何やらで一時期とんでもなく病んだ時期があった。
都内へと向かう足取りは重く、常に死ねたら楽になるのか、などと考えていた。
だが、希死念慮と数年前から共存していた私は「死ぬ方法」というものを片っ端から調べあげた経験があった。その知識から

「楽に死ぬことは基本無理」
「自殺は失敗リスクが割と高い」
「人間は簡単に死んでしまうが、簡単に死ぬ事は出来ない」

という結論を導き出していた為、そう簡単に行動を起こすような人間では無かった。実際、私の左腕はつるつるもちもちだ。最近少しもちもちすぎる節はあるが。

そんな強いのか弱いのかよう分からんすんでのところで持ち堪えるメンタルの私だが、その時期はどうにも参っていた。もちもちの左腕にも痣がつく程に。

「特急列車が参ります」その声に駅の階段を駆け下りた。勢いで行けるかも、と思ったらしい。しかし私の足はすんでのところで止まった。
その日は、自分の行動が怖くて乗り換えの度に椅子に座って何本か電車を見送った。
電車を降りてからも足は重く、進むことを拒んでいた。しかし無駄に根性があるというか、痛く頑固な私は足を止めることは出来なかった。それでもその日初めて私は自らの意思で部活に遅刻した。確かその日は結局色々意見がぶつかったりなんなりして上手く振る舞えないもどかしさや悔しさでトイレに籠って泣いてしまった。そんなことも初めてだった。今思えば限界だったのだと思う。

そして、気付く。
朝の人身事故。あれはきっともう足が止まらなかったのだろうと。
彼に、彼女に、何があったのかは分からない。だけど、きっと限界だったんだろうな、と今なら想像出来る。いや、想像は出来ない。今生きている私は、死ぬに至る苦しみを知らないから想像出来ない。したくもないし出来ずに一生を終えたい。けど、人身事故まじか、という気持ちと共に悼む気持ちをどこかに持っていられる人間になりたいなと思う。

だから私は今日も駅のホームで考える。

いつか、今日を捨てようとする誰かの足を止める何かになりたいと。
小さな石ころでも何でもいい。
今日は辞めておこうと思える何かを作れたら。
私はその為に文章を紡ぐ。紡ぎたい。

なんて、高尚な夢をたまには抱く。
でも明日も生きているだけで偉いよ、私もみんなも。
沢山の石ころを集めて生きていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?