マダムヴィジニとシェークスピア。

「フランス」という国があまり好きではなかった。

その気持ちが何に由来していたか分からない。恐らく自国や母語への強烈なプライドとか、やたらとフランス産ワインを好んで飲んでいるとかそんな所だろう。全く下らない。フランス人の友人など居た試しがないのだ。バース市街で目にしたジェーン・オースティン像は、随分と気難しそうな面持ちだった。聡明な彼女が物語をしたためたら、どのような仕上がりだったろう。

2週間の滞在を終え、明日ヴィジニが帰国する。ワインとジントニックが好きな、快活で気味の良い女性だった。私を「若い」と評した点と、2人の息子の年齢から推測して、年の頃は45歳くらいだろう。トレードマークは2つの鞄だ。いつも持ち歩いていたが、中身は分からない。それを聞くのもまた、野暮というものである。

先週、何人かのクラスメートと、カンタベリーを訪れた。満席の車内で隣席に彼女が座る。好奇心が旺盛でいつも質問攻めにあう。車中での他愛無い会話は、乗り物嫌いな私にとり有難い時間だ。程なくして、「リーズ城」に到着する。カンタベリーから車で30分程の距離に位置する古城。小さな城のシルエットが、庭園の広大さを一層際立たせていた。

「2時間」という自由時間は、1人で過ごすには少し長い。そんな気がして、「一緒に回ろうよ。」と彼女を誘う。園内にやたらと居る水鳥は、これまたやたらと人懐っこい。「ごめんね、エサは持っていないんだよ」と大袈裟な身振りで鳥に話しかけると、彼女も大袈裟に笑っていた。文化的背景が異なっても、こういう所は案外と変わらない。そうやって元のサイズより、少し目の細かいレッテルを継ぎ接ぎして、人の表層は滑らかさを帯びてゆく。

「そういえば、何故イギリスに来たの。」

私の問いかけに、彼女は少し真顔になる。そして、笑顔で「英語を使って、今の会社から独立したいんだ。ダメだったら、また雇って貰うけどね。」と答える。私も笑って応じてから、ぎこちなく会話を再開する。そうか。キャリアは築くものなのだ。性別や年齢によらず、自分の手で切り拓くものなのだ。城を取り囲む湖面は強風で小さく揺れ、やたらと光を乱反射する。今春一番の晴天に、歩き続けた体は一層熱を帯びる。

「今日が最後だから、パブに行こう。良ければね。」

最後のリスニング試験を終えて、彼女は饒舌だった。入れ替わりで入学した新しいマダムともやたらと相性がいい。これがフランスの日常風景なのかな。ぼんやりそんなことを考えながら、祝杯を求めて歩を進める。降り出しそうな雨雲も、彼女に負けたのか。かれこれ数時間、持ちこたえているようだ。イギリスの天気はいつも気まぐれである。

今日は僕が奢るよ、と言うと、余った小銭を処分したいから、と真顔で答える。そういう所が魅力的だった。手にした2/3pintのエールは、独特の苦みとみずみずしさを楽しめるよう醸されている。目の前では、あたかもレストランかカフェにいるかのように、印象的だった先生や授業の話が繰り広げられる。

突然、

「ありがとう、貴方はいつも Heart of gold だったわね。」

とニッコリ笑われてしまった。私は気恥ずかしさを隠しながら、「黒髪のね。」とぎこちなく返す。彼女はまた、大きく笑った。新しいマダムもつられて笑う。ノリが良いというやつだ。時刻は19:00。夕飯の時間は近い。

フランス流の別れの挨拶は、分かっていても少し気恥ずかしいものだ。「会えて良かったよ。成功を祈っている。」と言葉を交わして送り出す彼女の頭上を、時を巻き戻したような晴天が覆う。イギリスの天気は、いつも気まぐれだ。あっという間に小さくなってゆく背中に、今日も提げられた2つの鞄。傾き始めた光を反射して、きらきらと輝いている。

ドーバー海峡を挟んだ隣国をぼんやり夢見ながら、自転車のロックを外す。「カチャン。」という音が小気味良い。ああ、送り出されたのは彼女だけでは無かったのだ。彼女と、彼女が語った彼女の国のことを、私はおそらく忘れないだろう。私は今、ほんの少しだけ、その鞄の中身を知っている。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)