才能とレッテル。
エアコンの聞いたオフィスでカタカタとキーボードを叩く。すると、いつの間にやら他愛ない雑談が聴こえてくる。
アイツはできるとか、彼は良い人だとか。仕方のないことだけれど、どうにも好きになれない。
できる人にも、できない時、失敗する時がある。失敗した時にも、発揮されている力や才能がある。
全てを掬う理想論は、行動ベースで評価が行われることではないか。
「あの時の準備は良かったけど、今回はそれができていなかった。」
とか、
「1件目のアポイントの導入は良かったけど、2件目のお客さんには少し合わなかったね。」
など。
個々の行動のプラスとマイナスを合算すると、とたんに個性が見えなくなる。それを一言で「良い」とか「できる」などと片付けては、いよいよ正体が朧気になってしまう。
これには「個別化」という私の思考パターンの1つが関連している。(ストレングスファインダーの分析結果は、下記過去noteから)
https://note.com/nemu_tai/n/n1f8d6414e676
書籍にうたわれるのだから、才能といっても良い。
便宜上そういう表現を用いることが絶対にないわけではない。行動一つ一つとまではいかずとも、いくつかのパラメーターを各人の頭の上に思い浮かべながら、発した言葉と認知のズレを修正していく。そんな姿勢こそダイバーシティではないか。
いや。個別化を志向しない人も含めるのが、真の意味でのダイバーシティなのか。うーん、なかなか悩ましい所だ。
そんなことを考えていると、いつのにかデスクにお弁当が配られている。誰かがついでに持ってきてくれたのだろう。ディスプレイの右下に目を移すと12時を3分回っている。
「ダイバーシティに耽るのは悪くないんだけど…就業時間中はね。」
誰かがそう言っても仕方がない。バツは悪いが、これも立派な才能の証である。
何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)