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I wish.

当時の僕は、「勉強」というものが心底嫌いだった。勉強とは何のために行い、それが一体どのように有機的に結びついていくのか、イメージできなかったからだ。

例えば、数学。

ある時を境に、両親から宿題の答えやその解釈を得ることが難しくなった。代わりに、塾や習い事に通わせてくれた。

今でも感謝している。間違いなく、当時の日々が鏡に映る「私」を形作ってきた。反面、今振り返っても別段不思議はない。「使わないのならなぁ。」そう思うな!という方が、酷というものだ。

私は比較的恵まれた家庭に育ったと思う。少なくとも、お金を理由に、何かに挑戦することを断られた記憶がない。そんな両親のことを、とても尊敬している。その両親が「知らない」ことを学ぶ意味がよくわからなかった。「読み・書き・そろばん」とは言ったものだが、日常生活に必要なのは算数であり、数学ではない。ならば、数学を習う意味とは何なのだろうか。

英語もそうだ。

「私たちが学校教育課程で習う英語は、数学のそれと同様である。」

これが今の所の私の結論だ。中学校で3年、高校で3年、大学で4年、かれこれ10年近くたくさんの講義を受け、真剣に勉強するのに、たいていの人が外国人と全くと言っていいほどコミュニケーションを図れないからだ。極めて簡単な単語やフレーズでさえ、正確に発することができない。発することができないものは、聞き取ることができない。理解することができない。

紹介するまでもないが、McDonald'sを「マクドナルド」、cocoaを「ココア」等と読まない。まして、「a little bit」を「ア・リトル・ビット」と一音ずつ区切って、それを棒読みのように発音することなど無い。さらに、イギリス人は「door」をアメリカ人のように「ドーア」等と発音しない。日本語に様々な方言があるように、英語の方言も膨大に存在するのだ。

問題の本質は、知識を持つことと、知識の使い方に関する知識を持つこと、それを使えるようになることの間にとても大きな壁がある点だ。上記の知識を持っていても、やはり英語風に発音し、コミュニケーションを図るのは容易ではないのだ。時差ボケの頭で受けたペーパー試験において、私のレベルはC1(英語上級者)。だが、私の英語は日常生活どころか、スーパーの店員とコミュニケーションを図ることにさえ、耐え得るレベルにはない。このようなことは世界から見れば異常なことだ。

コミュニケーションに必要なのは、発音やアクセント、英語特有のリズムであり、英語圏の文化的背景の理解である。非ラテン語源言語話者として英語を使えるようになるうえで、これらの点には最も重きを置かなくてはならない。

私は今、イギリスで英語を勉強している。

他人の意見を聞き、自分の意見を話す。その中で、「仮定法」や「動名詞」といった無機質な文法知識が、ConditionalとかGerundといった全く別の生き物に姿を変えて、目の前に日々登場する。それは、新しい世界が広がる快感と、目をふさいできたものを刮目せざるを得ないストレスとがごっちゃになった、濃密な時間だ。勉強とは、興味に従い、それを血肉にするための営みなのだろう。

「最初からこのように英語を学ぶことができていれば…」

仮定法の例文には丁度いいが、変えられない過去を嘆いても仕方ない。

帰国したら、そのようなことが自然に理解できるような環境を整えよう。数時間先の満開の桜の中を生きる我が子に、少し肌寒い異国の地で想いを馳せるのである。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)