私の、定義。

先日、400回目の「…さんがあなたをフォローしました」を目にすることになった。

冷静に考えればこれはとても恐れ多いことだ。また大変ありがたいことでもある。

とはいえ、改善点は多い。例えば、私のnoteはコメントしづらい雰囲気なのだろうなぁ…というのもその1つだ。

他人のnoteにコメントをすることは「フォロー」や「スキ」よりはるかにハードルが高いように思う。かくいう私も素晴らしい文章に出会った折に、他人のnoteにコメントを試みようとして、「まてよ、こんなコメント残して良いのかな…🤔」と葛藤し、結局コメントの数は、読んだりスキを付けたりしたnoteの数十分の一に留まってしまう、ということになっている。

それでも。書いている場所は机上に放置された私専用の日記帳ではない。無限に開かれたwebサービス上だ。だからこそインタラクティブに関わり合えるような交点を模索していきたい。

ということで、まとまりも何もあったものでは無いですが、今後ともどうぞよしなにお願い致します🙇


オマケといっては何だが、私が考える「良い文章」の定義について書きたい。3つの定義のいずれかを継続できる書き手を、私はフォローするようにしている。

先にお断りすると、もちろん文章の良し悪しに絶対的基準など無い。例えば、書店で売られる著名な小説家の文章でも「よくわからないなぁ…」で終わってしまうものも多いし、逆に他愛ないメールやLINEに「良い!」と感心することもある。先々、我が子が書くだろうその文章は、もはやどのようなものであれ、極端に言えば文字的な何かが書かれていさえすれば、必ず「良い文章」に分類されるだろう。

このように、あくまで私にとっての良い文章である点をお断りしたい。東京事変の「スーパースター」という曲は、椎名林檎さんが「イチロー選手」をリスペクトして作成したのだが、"私の"とスーパースターの定義をぎゅっと限定している点が、とても謙虚に曲の良さを引き立たせていると思う。

話を戻すと、定義は以下の3つだ。

①知らないことを教えてくれる(特異な知識・経験)
②知っていることを巧みに再定義する(精緻な表現・構成)
③何となく心を動かされてしまう

①や②はそのままだが、③は幾分抽象的なので補足すると、例えば過去のいつかの時点で私がした「その30%くらいの濃度の経験」を揺さぶり起こしてくれる、みたいな感動の無意識的な想起を伴う文章だ。当然、自分のことを書かれているわけではないのだが、どこか懐かしい感じがしてしまう文章に理由なく共感してしまうのが、人の性というものだろう。それが、何となく心を動かされてしまう、ということである。

ちなみに、アカウントをフォローする際に、フォロワー数を気にしたことはない。誰でもフォロワー数1からスタートするのだから、そこを気にしても仕方ないし、むしろまだ見出だされぬnoteを見つけ出したくて、今日もスマートフォンをせっせとタップするのである。今は、それが楽しくて仕方ない。


等ととりとめもない文章ですみません。皆さんの「良い文章」についても、気が向くようでしたらお聞かせ頂けるとありがたいです☺️

おしまい

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)