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尊い 「失敗」 の正体。

私たちの身の周りには、「失敗」と「成功」が溢れかえっている。「ゆりかごから墓場」にいたるまで、散弾銃のように、やれ失敗だ、やれ成功だとあびせられる。私たちは、息を吐くくらい自然に「失敗は成功のもと」だと口ずさむことができるし、似たような慣用表現達も、私たちの暮らしの中にじっと溶け込んで、表舞台へ上がる機会を伺っている。

「失敗は成功のもと」に初めて遭遇したのは、両手で数えられるくらいの年齢の時だ。聞くところによると、私には明確に"反抗期"というものが無かったそうだが、こんなnoteを書くくらいだから、物事を斜に構えて見るのが好きな少年だったに違いない。

「『失敗が成功のもと』だとすれば、お味噌汁に『出汁』が要るように、成功にも必ず失敗が必要ということになる。しかし、意図せず告白されて、恋人ができてしまう人がいるように、人によっては『失敗しなくても成功する時』というものがあるはずだ。一方で、味噌汁に出汁を入れないことは無い。つまり、失敗は失敗で、成功は成功。ただそれだけのことだ。」

そんな、具体例を挙げつらっていたのかはさておき。何とも言えない気持ちでこの"表現"と向き合っていたことは覚えているが、当時の"僕"としてはそれ以上調べようもなく、適当に心の中で"折り合い"をつけて、やり過ごしてきた。

時を経て、この"思想"の真意や語源を紐解こうと試みても、なかなか上手くいかない。あらゆる知識を、ワンクリックで検索できるこの御時世(近頃は、「クリック」する必要すら無くなった)でも、得られる対価は、古今東西同じような慣用表現があるらしい、という無味な知識だ。ヒントが無いなら、自分で考えるしかない。語源の方はシンギュラリティがどうのかこうのかと崇められる先々の「AI」に任せることにしよう。

単なる負け惜しみか、はたまた価値ある何かか。失敗について1つの結論を出す上で、明らかにすべきことがあるように思う。そもそも、失敗とはなんだろうか。私たちは失敗について、「何だかよくわからないけれど上手くいかなかったこと」のような、フワッとした"観念"を抱いている。"観念"は抽象的で明確ではないイメージの世界だから、"概念"として具体的に言語化した方が良い。失敗だと感じることの背景や前提条件は、個人の経験則によるところが大きく、何らかの定義付けが必要だということに異論は無いだろう。例えば、私のとるに足らない"タイプミス"は「失敗」なのだろうか。
「失敗」が包含する要素とは何か。

私は、「失敗」を次の3点からなる経験と定義している。

・当事者意識を伴う取り組みの中で(能動的な挑戦)
・複数の不確実な選択肢の中から、結果的として最適な選択ができなかったために(不確実下の決断)
・望む果実を手にできない(目標との差異)

注目すべき点は、「失敗」が能動的要素を包含している点だ。
メールの誤送信も、スケジュールのダブルブッキングも、私のタイプミスも、世にありふれる多くのミスは「失敗」以前のお話である。これらは、確認不足という怠慢の結果起こる必然的な結末であり、上手くできていたとしても「成功」と称するに値しない。

もう1つ、決定的に重要な要素がある。失敗は"不確実性下"における選択の結果として生じるということだ。
最善の努力を重ねても、「運」というたった1文字を味方にできなければ、「成功」には至らない。気まぐれに顔色を変える新生児とコミュニケーションを図るように、「失敗」と「成功」はいつも紙一重だ。

そうして考えていくと、「失敗」とは、「成功」よりはるかに尊い経験だ。
「成功」は、残念ながらその理由を明示してはくれない。こっそり裏で手を回してくれていた上司や友人の存在、いきなり好転する株式市場、購買意欲旺盛な客の訪問。そういう自分ではない要素に、私たちの結果の多くは左右されることになる。望みの成果を遂げた今、はたして、そこからなお学ぼうと答えのない問いと対峙できるだろうか。私達の時間は有限であり、そして、何はともあれ貴方は「成功」したのだ。

「失敗」は違う。何かに挑み、何がしかの理由で望みの成果を上げられなければ、次に向けて死に物狂いで目の前の課題を再分析する。何故できなかったのか、何が足りないのか、客先とのコミュニケーションか、上司のフォローを仰ぐべきだったか、ロスカットのタイミングは、いやマーケティングの方法か。

いずれにしても、目の前の課題に集中し、足りない知識を補い、人脈をフル活用し、何とか現状を打破せんと、より良い施策を講じるだろう。私なりの定義に従えば、失敗とは、成功に近しい努力を重ねてなお、成功以上に、「気付き」や「動機」を与えてくれる貴重なギフトだ。

私は、かつて必要以上に「失敗」を恐れる類の人間だったが、いつしか積極的に色々な種類の尊い「失敗」を重ね、糧にしていきたいと思うようになった。「失敗」の効率性を知ることができたのは、この先の大きな財産になるだろう。

そういえば、冒頭のフレーズに悶々としていた当時、苦手としていたゲームがある。将棋や囲碁と同じように、頭がこんがらがって、なかなかどうして好きになれなかった。それは、裏返された大量の「カード」の中から、2つのペアを探し出し、交替にとり除いていく、というシンプルなゲームだ。

同じものは、忘れる前にとり除いていく。ミスを減らし、尊い「失敗」に出会い続けるヒントは、案外と身近な所にあるものだ。お盆休みの、心なしか少し静かな喫茶店の中で、いつもの「アイスコーヒー」を飲みながら、そんなことを思った。

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