「言葉」について改めて考えてみた
みなさん、飲んどりますか、にーとです。
今日もみなさんと同じ夜を、のんべんだらりと過ごしていこうと思います。
きっかけは、この曲の歌詞でした。
『言葉がなかったら、迷わずに抱きしめていただろう。』
「言葉」があるから余計な一言を言ってしまって、または、必要な一言を言えなくて、大事な人に大事なことを伝えられなかった。
「言葉」がなければ、こんな悩みや迷いは生まれなかったのにね。
「言葉」は人間にとって重要なコミュニケーションツールです。
誰かと意思の疎通を試みるなら、「言葉」が必要になります。
語彙が豊富な人は、乏しい人より、多くの情報を相手に伝えることができます。
ですが「言葉」があることで、必要ないことまで相手に伝わってしまう。
そんなこともありますよね。
誰かと一緒に時を過ごし、楽しかった記憶や思い出は映像として共有できるのに、それを「言葉」にしてほかの誰かに楽しかったことを全力で伝えても、いまいち伝わらないことってありませんか。
たくさん「楽しい」についての語彙を並べて、どうにか楽しかったことを伝えようと努力しても、なぜかその時の「楽しい」が相手に届かない。
コミュニケーションはキャッチボールだと言いますが、それは、球速が同じくらいの肩を持った人としかできないのではないかと思います。
つまり、同じような感覚を持っている人としか、本質的なコミュニケーションは成立しないのではないかと。
その、本質的なコミュニケーションですら、いったん「言葉」という媒体を経由している以上、こちらの真意は届かないのではないか、と。
誰かに何かを伝えることは、想像以上に難しい。
僕らが「伝わった」と思っている何%が相手に「理解」されているのでしょうね。
「言葉」にも色々な形態があります。
言語の違いや手話だけではなく、空気感にすら、言語的な「何か」を僕は感じます。
そのような、多様な、表現の幅を感じる時、僕の「言葉」は相手にどれだけ伝わっているのだろう?と不安になります。
『舟を編む』という三浦しをんさんの小説が好きで、この本の中に出てくる辞書編纂をしている方々の「言葉」への向き合い方が好きです。
用例採集カードを常日頃持ち歩き、新しい言葉や、言葉の用法の変化などを、文献や身の回りから集める作業を行っています。
この方々にとっての「言葉」は、幼いころに熱中した、虫捕りみたいだなと思うのです。
新たに出会う「言葉」への、興味と好奇心、純粋な面白みで「言葉」と向き合っています。
使うことができるようになった「言葉」を、新しく増えた語彙を楽しんでいるその感じに、あぁ、それが楽しくて、それが面白くて僕は本を読んだり新聞を読んだりしていたんだよな、って気持ちを思い出させてくれる。
「言葉」をツールとしてばかりみていたのかもしれない、もっと奔放に、気持ちよく、純粋に「言葉」と接することが、この伝わらなさとか理解されなさみたいな、ツールとしての不便さと折り合いをつける、唯一の方法なのかもしれないと、思います。
どうせ全てが伝わらないなら、せめて自分が気に入った「言葉」をたくさん使って、伝わったような気がするまで、せいぜい楽しくあがいてやろうと思いました。
最後に、好きなアニメの好きなセリフを書いて終わりにします。
『言葉はいつも、心に足りない。伝わらない物は伝わらないんだよ。』
忘年のザムド