妖術秘伝・鬼打鬼
noteを始めて以来ビーイング音楽とプロ野球の話題に触れ、守備範囲の狭さと専門性に欠いた知識を遺憾なく示してきた自負があるが、今後も懲りずにエンタメ紹介記事を投稿していくにあたり、そろそろ”映画”についても語っておかねばなるまいなと。
noteに限らず、ブログや個人HP文化の頃からエンタメ批評の中で最も定番かつ競争相手の多い分野で、何なら今どき映画の感想系ブログなど相手にされず、その程度ならAmazonのレビューで十分だったりします。
しかしそんな中、無類のキョンシー映画好きを自負する者として、それに関連する80年代香港映画を中心に語らえばこんな俺でも活路を見出だせるのではないかと勘違いした次第です。
と言っても評論だの考察に及ぶつもりはなく、飽くまで紹介に留める予定です(己の浅薄な人間性が露呈するのは勿論のこと、そもそもそんな深い分析力を要するような内容でもないので)
キョンシー映画というジャンルを絶やさぬ為に…
キョンシーとは、中国の死体妖怪の一種。硬直した死体であるのに、長い年月を経ても腐乱することもなく、動き回るもののことをいう。主に映画によって吸血鬼、ゾンビのイメージに当てられたキョンシー像が作り上げられているが民俗学上根拠は薄い。
1980年代後半に日本でも大ブームを巻き起こした"キョンシー”であるが、今やその存在感はすっかり薄まっており、強いて言うなら10月のハロウィンの時期にゾンビコスの一環で扮する者が毎年僅かに出現する程度となっている。
一時期、レンタルDVDショップの『香港映画コーナー』は「冬のソナタ」大ヒットの煽りを受けて大量の韓流ドラマDVDに侵食され、街からキョンシー映画が消え行く様を悲しい気持ちで見守っていた(見守るしかなかった)ものだが、世間一般からしてみればキョンシー映画などニッチな層にしかハマらないB級映画に過ぎないと軽んじられているのではないか。
否、俺はキョンシー映画ほど優れたエンターテイメントコンテンツはないと断言する(変な奴だと揶揄してもらって大いに結構)
実際に10年ほど前、『ピラメキーノ』という子供番組がきっかけでキョンシーブームが再燃したことから分かるように、時代を問わぬ本質的な面白さが内在していると言えるのではないか(そもそもエンターテイメントビジネスにおいて"子供受け"というのは最大の強みに他ならない)
筆者が思うキョンシー映画の魅力とは『ホラーの緊張感とコメディの振り幅』『カンフーアクション』『法術の格好良さ』の3要素で成り立っている。詳しくは今後、少しずつ触れていく所存…無駄に小出しにしていきます。
尚、足りないものといえば『イケメン』と『キョンシー映画好きを公言したときに気味悪がられる』という点だろうか。
事実、脂ぎった顔面の暑苦しい男どもしか出てこないし、現状サブカルの一種と捉えようにもオシャレとは言い難いものがある。
よって所謂F1層が楽しめる要素は皆無に等しく、浅野いにお作品とか好き好むような方なんか特に、無理な視聴はあまりオススメしません…。
記念すべきサモハン・ホラー第1弾
キョンシー映画自体は戦前から中国で多数作られてきたが、究極のエンターテイメントにまで昇華させたのは皆さんもご存知の名作『霊幻道士』(1985)。当時、中国や台湾、日本で大ヒットを記録し、あの鬼才タランティーノ監督もお気に入りの作品なんだとか…(飽くまで根も葉もないネット情報です)
しかし『霊幻道士』は、香港映画界のアクションスターであるサモハン・キンポーが手掛けたホラー映画シリーズの第4弾に当たる作品で、その第1弾は今回紹介する『妖術秘伝・鬼打鬼』(1980)なんであります。
サモ・ハン・キンポーが監督・主演を務めた傑作ホラー! ――怖いもの知らずを自称するジェン・ダイタンは、実は相当な臆病者。ある日、ジェンは女房が村の名士ダンと浮気をしていることを知ってしまう。ダンは、スキャンダルを恐れて、ひそかに悪の道士チン・ホイにジェン暗殺を依頼する。肝試しでジェンが古い廃寺に向かった夜。妖術パワーを受けて蘇ったキョンシーが、ジェンに襲いかかる!!
世界を席巻したブルース・リーによるカンフー映画ブーム、ジャッキー・チェンの命懸けアクション映画ブームなど香港映画界が隆盛を極めていた頃、両者と親交が深く、同じくトップスターであったサモハン・キンポーが香港映画に新しくホラーの要素を盛り込もうと、キョンシーなどの古来より伝わる中国の妖怪を登場させた意欲作。
妻に不倫され、妖怪を召喚する暗殺者に命を狙われるって話だからストーリー自体は暗いんだが、その辺は何となくでいいんですよ、ぶっちゃけ。
というか1980年代の香港映画全般に言えるのかもしれないが、カンフーアクションと妖術バトルの格好良さ、道教を扱った中国特有のアートワーク、デザインセンスに注目して欲しいのだ。
汗かいた野郎どもが鬼気迫る形相で叫んだり唸ったり破壊したり、決定的瞬間におけるスローモーションの多用と、ただひたすら不気味なだけの妖怪たちも可愛く見せる気なし。どこを切り取っても好きな人に見せたくなる要素が見当たりません。
伏線だとか回収だとか考察だとかそんな高度な見方をする必要はない。というか雑多な具材や調味料を中華鍋にぶち込んで強火で一気に仕上げたっていうようなスピード感重視の映画なので深く考えてる暇などない。
そして何より陰鬱なストーリーにあってどこかコミカルさが漂っているのは主演であるサモハンのふくよかな体型と愛嬌のある顔、更にそれでありながら機敏なアクションを見せるというギャップが大きく作用しているからではないかと(それでも衝撃のラストシーンは現代日本人の感覚で見ると普通に引いちゃうけど)
サモハン・キンポーのプレイヤーとしてのキャラクター性、そしてプロデューサーとして業界にホラー映画を仕掛けるという先見性と実行力。天賦の才を持った映画人であるというのを再確認させられる。
しかしこの頃の“キョンシー”は飽くまでもサモハンを殺しに来る中国妖怪の一体に過ぎず、のちに単体で拡大していき日本のガキ共から熱烈な支持を得て、揃いも揃ってキョンシーステップをしながら登下校するという事態にまで発展するなどとはサモハン自身も予期していなかったことだろう(現に第2弾『霊幻師弟・人嚇人』、第3弾『霊幻百鬼・人嚇鬼』でキョンシーは登場していない)
しかし、本作品と『霊幻道士』を比較したときに、キョンシーというキャラクターが持つわかりやすさであったり、ホラー映画に対する優れた効果的かつ構造的特性が明確になってくる。
その辺のことについてはまた別な機会に触れさせていただきます(付いてこれてますか…?)
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