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お笑い

「ねぇ、何見てるの?」
「ん?お笑い」
「面白い?」
「そうだね、結構。っくくく」

一瞬だけスマホの画面から外された視線は、僕と目が合う前に再び画面に吸い込まれていった。コード付きのイヤホンは耳からだらしなく垂れ下がって、そのまま彼の手の中におさまる黒いスマホの上部に刺さっていた。彼の肩が揺れる度に、コードが腕に纏わりついている。絶妙な角度で画面は見えない。分かっている。わざとだ。

「ねぇ、何見てるの?」
「お笑い、だって」

不規則な呼吸のリズムに巻き込まれて、言葉がはねた。僕の問いに答えてくれようという姿勢は見えるが、しゃっくりが止められないように彼は笑い始めたら止められない。以前見たときは15分位はずっと肩を揺らしていることがあったから、ちゃんとした会話をするにはまだ時間がかかるだろう。

「ふーん」

何が面白いのか分からないが、彼は最近よくこの公園のベンチに座ってイヤホンのコードと戯れている。大きく揺れる身体の動きに、いつかコードが全身に巻き付いて、それでも我関せず笑っているかもしれない姿が容易に想像できるだけに、やはり何がそんなに面白いのかとても気になるのだ。この世の終わりみたいに笑い続けられるお笑いなんてあるんだろうか。





彼を初めて見かけたのは、放課後に公園の芝生のエリアで友達とサッカーボールで遊んでいた時だった。だだっ広いことしか取り柄のない植物園に隣接された公園なんて、子供はおろか、大人も来ない。もちろんサッカーゴールなんてない。たまに老夫婦が散歩してるくらいで、ボールの使用が禁止されているとしても咎める人なんて居ない。

人気がないのが当たり前すぎて、木陰に半分隠れるように設置された木のベンチに人が座っていることに気づいたときは、無意識に目で追っていた。どんな暇人が、何をしているのかと。遠目にも上半身が左右、前後に揺れているのが分かった。100メートル位は離れているから詳細は分からない。一定間隔で身体がビクッと強ばり、また揺れる。着ているものは汚れてはいなさそうだから、公園の住人という訳でもないんだろう。羽織っているとおぼしき明るい色のチェックのシャツのイメージから大学生位に見えた。その時は何をしているのかは分からなかったけれど、彼はベンチからは動く気配がなかった。友達も気にしていたけれど、大人に文句も言われずボールで遊べる場所なんて近場にはここしかない。遠目の怪しい人間は放っておいて暫くボールに夢中になっていると、いつの間にか彼は消えていた。






ひとしきり笑って気が済んだのか、片方の耳からイヤホンを外し目尻をうっすら濡らした瞳が、こちらを伺っていた。

「見たいの?」

反応を試すような目。奥に居る悪戯っ子が隠れきれていないのが分かった。隠れる気もないんだろうけど。少しでも希望があるならと、また期待してしまう。

「うん、見たい」
「子供には早いんじゃないかな」

(やっぱりね)

僕は彼が言うほど子供ではないと思う。確かに小学生だけど、宿題だってちゃんとやるし、家の手伝いもする。妹がぐずった時は、だいたい僕の出番だ。 家族にとっては頼れる兄なのだ。

「子供が見れないお笑いって何?」
「内緒」

納得いかない。全く。






次に彼を見かけたのは塾の帰り道だった。もう日は暮れていて、公園に等間隔で灯るやけに明るいLEDの明かりにすっぽりと身体を埋めていた。やはり同じベンチに腰かけていたけれど、俯いた表情は分からなかった。そもそも彼がいつも座っているベンチは、公園の内側を向くように設置されているからだ。歩道とベンチの距離は近くて2、3メートルも離れていない。だから俯いているように見えたのは後ろ姿だった。

時折上下、左右に動く身体。くぐもった声。大きく揺れる丸まる背中。

「くくくっ」

堪えた笑い声だった。耳から生える細いコードの影が見えた。外には何も聞こえてこないけれど、恐らくスマホでも見ながら笑ってるんだろうと思った。その瞬間にさっきの出来事を思い出した。



その日の塾の算数のテストは散々だった。何でか公式も図形も全く頭に入ってこなくて、シャーペンの手が動かない。壁にかけられた時計の秒針が耳元で鳴っているみたいだった。こんなこと初めてだ。高学年に入って2年ぐらい同じ塾に通っている友達は、テストが終わると隣の席でテンション高く「今日の楽勝だったなー!」と声をかけてきた。返す言葉に詰まる。

彼に悪気がないのは分かっている。いつもだったら自分だって一緒になってテストの内容についてあーだこーだ語り合っていたはずだ。反応がない様子に何かを感じ取ったのか、彼は「まぁそんな日もあるよなぁ」と呟いて、僕の背中を大袈裟に何度か叩いた。「俺のパワーを受けとれー!」「ちょ、痛いって。普通に痛いだけだって」

本当にパワーが詰まっていたのか、だんだんと背中が熱くなる。あんまりな仰々しい言い方に思わず笑ってしまった。彼はそういうムードメーカーみたいな奴なんだ。

人を笑わせられるのって凄いな、と思った。



ベンチの彼は、いつも笑っていたのだ。何かが面白くて?何かが可笑しくて?常軌を逸した勢いで笑っている。いつか過呼吸で倒れたりしないだろうか。一体何が面白いんだろう。電灯に照らされた後ろ姿が、何故か神々しい気さえしてきた。どうしたら、そんな風に人を笑わせられるんだろう。

変な人だとは分かっていたけれど、暗闇の中であることを除けば、家で普通にテレビを見て寛いでいる時のような柔らかな雰囲気ではあったから、あまり怖くはなかった。

どうにか彼が何を見ているのか知りたかった。取り敢えずしばらく観察してみることにした。イヤホンをしているということは、恐らく外の音はあまり聞こえていないはず。笑っていて身体が揺れるのは15秒に1回くらいの間隔だ。その間隔を狙おう。

背後から細心の注意を払って少しずつベンチの背ににじり寄り、ゆっくりと距離を縮める。ベンチはあまり背の高いものではなかったから、上から覗けば肩越しには彼の手元が見えそうだ。ベンチの背にそっと手を置く。彼は相変わらず身体を揺すって笑っている。

期待感と緊張感に心も身体も浮き足立ち、あと数センチで彼の手元が見えるという距離まで伸び上がったその瞬間に、彼は素早くこちらを振り向いた。360度見渡すフクロウの首が音もなく回転したような不気味さだ。至近距離に彼の顔。

「うわっ」

驚きすぎてベンチを突き放した反動で見事にバランスを崩した。漫画みたいに地面に尻餅を着いた。もちろん手元なんて見えなかった。阿保みたいに口を開けて、目を見開いて呆然と彼を見上げていたと思う。

ベンチ越しにそのまま上半身を捻った彼は、笑顔で僕を見下ろしていた。いや、何だか記憶が曖昧だ。電灯の影で逆光になっていて彼の顔は暗かった。怒っていた?かもしれない。

「何か用?」

彼は落ち着いた口調で僕を見下ろしながら、ゆっくりとイヤホンを外す。

「聞こえなかったから。なんか話しかけてたんならごめんな。くくっ」

笑われたことにはっと我にかえって慌てて起き上がった。まだ尻が、着いた手がじんじん痺れている。恥ずかしい。彼の目は真っ直ぐ見たくないが、少なくとも話が通じる普通の人間のようだ。だとすれば随分失礼な態度をとってしまったかもしれない。バレないように覗こうなんて。

「えっと。いや、いつも、何で笑ってたんだろうと思って」
「いつも?」
「あっちの芝生の方でサッカーしてたから。見えた」
「ああ。居たかもしれない」

彼は、今はもう暗くて遠い芝生のエリアを一度振り返って眺めてから、またこちらに向き直った。

「何見てたか知りたかったの?」
「う、ん」

おずおずと顔を上げると、彼は凄く愉快そうに顔を歪ませた。

「内緒」

彼の目の奥が鈍く光っているような気がした。冷蔵庫の下に入り込んだお気に入りのおもちゃを、久しぶりに見つけた猫のような。

その後は、彼が大学の講義の合間に公園に来ていることとか、法律を勉強してることとか、なんだか家に居たくない事情があるらしいことはいろいろ話してくれたけど、何を見て笑っていたのかは結局教えてくれなかった。





「何で教えてくれないの?」

何度となく繰り返したやり取りを、また今日も始めてしまった。空はもう半分程、赤い泥水のような闇に侵食されていた。
毎回違う切り口で押したり引いたりしているつもりなのに、彼の回答はいつも同じ。内緒。もしかして口癖なんじゃないだろうか。もういっそそうであって欲しい。そしたら気にしなくていいのに。

「じゃあさ、逆に何で見たい訳?」

彼は外したイヤホンをぐるぐると指に巻き付けて、ベンチの脇に置かれている黒いリュックの外側のポケットに押し込みながら、ちらりと視線を寄越した。帰り支度を始めている。何とか引き止めないと。

「ええと。いつも笑ってるでしょ?僕もそんな風に人を笑わせてみたいなぁと思って」
「なるほど。自分が笑いたいんじゃないんだ」
「それもあるけど。だって凄い笑い方してるでしょ?絶対凄いもの見てるんだと思うじゃん」

この際僕の語彙力がないのなんてどうでもいい。凄いどうでもいい。いつもとは違う手応えがあった。彼にとっては僕が気にしない部分が重要なのかもしれない。

「友達に人を笑わせるのが上手いやつがいるんだ。どうやったらそいつみたいに笑わせられるか知りたいんだよ」
「俺は笑う方なんだけどね」
「知ってる」
「まぁ、知ってる方法であれば話せなくもない」
「いいよ!それで」
「仕方ない」

いい加減僕との押し問答に飽きたのか、ため息混じりに吐き出して淡々と話し始めた。

「笑うっていろんな種類があるだろ?愛想笑いもあるし、嬉しいときも笑うだろうし、ストレス解消にもなるらしいしね。でも俺が面白いと思うのは、脳の不快を解消してるって説だ。例えば誰かと会話してるときに相手の予想に反する態度をとったり言ったりする。『あのリンゴ美味しそうだね』『いや、あれは擬態したバナナだよ』とか。何だよ擬態したバナナって」

彼は自分で言いながらくつくつ笑っていた。つられて僕も笑ってたけど、擬態したバナナを無理やり隅に押しやって、先を続けてもらうべく先を促す。また15分も待ちたくない。

「それで?」
「そう、それで。脳はびっくりする。ズレが気持ち悪いからそのストレスを解消したくて笑っちゃうんだ」
「え、面白くて笑ってるんじゃないの?」
「勿論面白いと思ってるよ。ほら、例えば下ネタ。下の話って大抵イケナイものだと教えられる場合が多い。もともと口に出すのがタブーだと思ってる人も多い。汚いものとか卑猥なものって普段の日常から排除しようとしてる。無意識にも、意識的にも。だから、教室で突然下ネタを叫んでる奴がいると何だか面白い。教室と下ネタって絶対に同じ場所に存在しないんだ。存在してはイケナイんだ。机の上に、綺麗に巻かれたソフトクリームみたいなうんこ乗ってたらどうする?」

笑う。僕は絶対に笑うと思う。顔がニヤける。クラスの女子が泣き出そうが、先生が怒り狂ってようが、どうやってその美しさを保ったまま机に居座っているのか飽きるまで想像しながら。だってあり得ない。ただし、自分の机じゃない場合に限るけど。彼が誇らしげな顔で笑っている。

「だろ?まぁ、正しいかどうかは分からないけどな。予想外なことしてみればいいんじゃない?」
「難しそうだなぁ」
「そうでもない。俺は笑う方が好きだけど。笑わせるのも好きだ。笑うのが好きな奴は、何が面白いか本能で分かってる」
「そうなの?」
「そう」

彼は立ち上がってリュックサックを背負い、スマホをパンツの尻ポケットに押し込んでいた。

「帰るの?」
「そうだなぁ。帰るかな」

もっと話を聞いてみたかったけど、面白い話を聞けたので大分満足した。早く話せばよかった。

「帰りたくないんじゃなかったっけ?」
「まぁそうも言ってられない」
「ふーん。それで、結局何見てたの?」
「粘るねー」

多分ダメだと言われると思っていた。だから別に期待してなかった。僕もそろそろ帰って妹の相手をして、母親が作る今日の夕飯のメニューに思いを馳せていたい。シチューが食べたい。今から帰ればリクエストは間に合うだろうか。

彼は笑いながらさっきしまったスマホを取り出して弄りはじめた。それを視界の端に見付けて、すぐに彼の顔とスマホを交互に見比べた。もしかして見せてくれるつもりなのか?それともまた、騙されるパターンなのか。

「ほら、これだよ」

彼は僕の隣に並ぶとスマホの画面が見えるように傾けて続けた。

「ちょっとね、ネタがね。下の意味で大人向けなんだよ。地方でやったときのだから余計にね。意味分からないだろ?」

確かに意味は分からなかった。だって画面が真っ暗だったから。

「えっと」

どうしたらいい?彼は本気なのか?からかわれてるのか?僕の目がおかしくなったのか?どんなに見つめても画面は変わらない。音だって何も聞こえない。彼は僕と同じように画面を見下ろしながら、さっきまで話していた様子と変わらず、時折画面を操作しながら何かのタイミングで声にだして笑う。僕が何も言えずに固まっていると、彼は残念そうにスマホを引き上げて、そのまま元あった尻ポケットに突っ込んだ。

「だよなー。だからあんま見せたくなかったんだよ。後で調べるなよ?」

「えっと、本気?」
「ん?」

聞いてはいけないような、知りたくないような。今まで隣に居た生き物は何だったんだろう。早くネタばらしして欲しい。早く、早く。

「冗談だよね?」
「ん?」

彼は目を細めていつものように笑った。そのまま誰にともなく「じゃあね」と呟いて公園脇の歩道を歩いていった。何の違和感も感じさせず。僕の気持ちの他は。

足音も、人影もなくなった頃、やっと身体が戻ってきた気がした。分かったのは少なくとも、彼は笑うプロかもしれないけど、笑わせるプロじゃなかったってことだけだ。

そんなことも、あるのかもしれない。
僕が知らないことなんて、山程あるんだ。
だけど、知らなくても生きていけることだって山程あるんだ。

明日、絶対に友達にこの話をしようと思った。
もしかしたら、笑ってくれるかもしれない。




fin.
















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