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3日かけた速球的なコンテンツと10分かけたスローボール的なコンテンツ

昨日書いたこと(『人に見えないこだわりをやめたことで制作効率が跳ね上がったという話』という記事)。自分の中でなにか引っかかっていたのと、周りからの反応もあったので、「これはまだ奥に何かある」と思って、車で移動しながら、ホイアンの街を歩きながら、ああでもないこうでもないとしばらく考えつづけた。良いこだわり・悪いこだわりという呼び方は漠然としていて、あまり抽象的な線引きをするとかえって危険だとも思ったからだ。

それで出た結論は、「球の使い分けをするってことか」というものだった。あまり野球のことは知らないけど、漫画などで得た程度の知識の限りでは、ピッチャーは、速球と変化球、またスローボールを使い分けるという。どれだけ速い球でも、投げ続けるとバッターだって身体が慣れる。そんなときにヒョイッとスローボールを投げることで虚を突いてストライクを狙えると。もしかして、記事、動画、そのほかいろんなコンテンツにおいても、同じことが言えやしないかと思った。

原稿料をもらって書く記事ではなるべく速い球を投げるべきだとは思ってる。でも、最近はじめたような動画では、めちゃくちゃおもしろいひとつをつくろうとはまるで考えてなくて、ちょっと役立つくらいでいい、むしろおもしろいと思ってもらえたらラッキーだ、くらいに考えてる。

それ以上にあれは、たくさん数が揃うことでベトナムの全体像が分かる動画のカタログ的な存在を目指していて(もっと言えばベトナムだけではなくその先には世界規模でやりたい)。そうなると体力を使ってまで速球を投げている暇はないというか。スローボールでもいいから、とにかくたくさん投げつづけないと、いつまでも理想の形は完成しない。

そう考えが至った途端、後頭部をガツン!と叩かれたような衝撃が走った。あ…そうか、そうか。今までは、最低限自分にとっておもしろいと言えるものをつくってきたつもりだったけど、こんなコンテンツに溢れかえっている時代では、「いいものをつくる」とは別に、「たくさんつくる」ということもまた武器なんだと思った。なんで今まで思わなかったんだろう。もしかしたら、恥ずかしい話、そんな作り方をどこかで下に見ていたかもしれない。

もちろんたくさんつくるからと言って、手抜きするのはどうかと思う。できる人もいるけど、自分にはできない。いやだ。だからこそ動画において「時間をかけずにつくれる=短い時間でたくさんつくれる」フォーマットを考えていたので、ある意味では最初から自分にとっての合格ラインを低く設定したと言える。それこそが昨日書いた「人に見えないこだわりをやめる」だ。

でも、「こだわりをやめる」というより、もっと言えば、「こだわりを使い分けられた」方がいいんだ。動画だ動画だなんて言ってるけど、そこに思い至った背景には、かれこれ三ヶ月近くつづけているこのnoteでのブログや、SNSでつづけている「一日一越」という過去のベトナム写真投稿なのかもしれない。毎日出す以上、どこかでスローボールを投げないと体力が尽きる。

よく週刊漫画が1年2年連載がつづく中で、作家もこなれてきて、初期の画風とぜんぜん違うなんて話があるけど、あれもまたほどよく頑張らないで済む描き方を覚えた結果なんだろうし(前提としてめちゃくちゃ頑張ってるのは言うまでもないんだけど)。ひとつひとつは大しておもしろくはない、でもたくさん揃うことで意味が生まれてくる。ミルフィーユ的なコンテンツとでも言えばいいだろうか(ぜんぜんうまく言えてない)。これをハッキリと自覚したことはデカイ。この考え、今後を大きく変えることになりそうだ。

ぜんぶうまい棒につぎこみます