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無人駅_初稿

 僕の部屋の窓からは無人駅が見える。窮屈な田舎の真ん中にのたりと立つ無人の高架駅が見える。

 無人駅は無人なだけあって普段は常にひっそりとしている。暗いコンクリートの塊のままに憮然と息を潜めている。だから普段は誰も無人駅の存在に気づかない。地元の人間ですら、無人駅のことを聞くと、ちょっと眉をひそめて、二三記憶を辿って、それからやっと思い当たって「ああ!」と言うくらいだ。

 僕は小さな頃からその事を何度も不思議に思った。

(なぜだろう、あいつはあんなに巨大で暗いコンクリートの塊なのに!)

 それでも僕にしたって、不思議に思ったすぐ後には無人駅のことなんて忘れている。忘れてしまえばなかなか思い出さない。なぜだろう、あんなに巨大で暗いコンクリートの塊なのに。

 だから無人駅は、一時間に二本の電車がホームに入り込む時だけ、ことさら大げさに唸りを上げる。唸りは周囲の田園を暗く重く駆け抜ける。鉄塔に反響して歪になる。そして鋭く僕の部屋に入り込む。その唸りは僕にこう聞こえる。「俺はここにいる。俺はここにいる」そう聞こえる。

 十歳になるかならないかの頃、僕は一度、母親に聞いた。「なぜ、無人駅はあんなことを言うのだろう?」

 母親は唸りに耳をすませる。「あんなこと?」けれど母親の耳には、録音された女性の声の機械的なアナウンスしか届かないらしかった。「一番線に電車が参ります、白線の内側まで——」といったような、機械的な。

「あんなこと?」母親は不思議そうに僕を見て、もう一度聞いた。僕はううんと首を振って「なんでもない」と答えた。僕は不思議に思った。

(あいつはあんなに暗く重く唸っているのに!)

 そしてすぐに忘れた。


 ◉


 中学に入ると、僕は他人の煙草やブタンガスの臭いに囲まれながら平日をやり過ごし、休日には古書店に通った。

 友人絡みの騒動で何度か補導されたが、交番勤務の警官は僕の鞄の中に教科書とウォークマンと表紙の剥げた夏目漱石の文庫本しか見当たらないのに気付くと、僕の肩を叩いて決まったように言った。「君には将来がある」それから他の友人を見回して口を捻る。

 なるほど、僕には将来がある。でもそれは誰にとっても同じはずだった。

 酸欠で呂律の回らない目の虚ろな友人達にも、くたびれた青い制服では隠し切れない贅肉を抱えるこの警官にも、きっと平等に将来がある。当時の僕は不思議とそう信じ切っていた。

 それは確かに正しかったのかもしれない。根拠のない正しさが僕らの生活には必要だった。そしてその正しさの中で、誰かはコンビニでブタンガスを買い漁り、誰かは夏目漱石を読んだりする。それぞれにそれぞれが正しいと思っていて、それぞれにそれ以外の正しいことを知らない。

 注意を受けて学校に報告されたり、時には報告されなかったりして交番を出ると、僕は決まって暗い唸りを聞いた。そこでようやく思い出す。

 そうか、この町には無人駅なんてものが存在したし、この交番はそのすぐ近くにあったのだな。

 そして僕はしばらく無人駅を仰ぎ見る。傍で見る無人駅はやはり暗く巨大だった。ホームは暗闇の中で微かに灯り、走り込んだ二両の車両は僅かな人々を乗せてブルッと震える。そして一息つくとまた走り出し、唸りは闇の中へ消えていく。

 僕が無人駅を忘れる頃、友人達は欠伸をしながら「行こう」と促す。警官との語らいが終わったのだ。

 友人達と警官は何故か互いに旧友のようになりたがり、互いの名前を覚えて、ついには互いを苗字や仇名で呼び合うようになる。そしてその親しさの中で再び出会い、小さな交番で罵声を浴びせ合う。

 将来はともかく、僕らの現在はいつだって何かと複雑な愛憎に溢れていた。煙草やガスや赤の他人の原付が彼らを引き合わせる。そして真っ当な世間が彼らを引き離す。忘れてしまう。繰り返す。

 そういえば、そんな中で一人だけ、僕と同じように無人駅を眺めていた友人がいた気がする。でもそれは僕の勘違いかもしれない。僕と彼は偶然同じ集合に居合わせただけで、互いの何も知り得なかった。名前も忘れてしまった。いつもぼんやりとしていて、煙草を吸うと極端に無口になったことだけを覚えている。

 後に聞いた話では、彼は高校を中退するとシンナーに親の金を注ぎ込み、その酩酊の中で自宅の二階から飛び降りて死んだという。

 彼はわずか数メートルの浮遊の中で暗い唸りを聞いただろうか。打ち所を悪くした彼の首が鈍い音を立てた時、彼は誰かを思い出しただろうか。わからないが、とにかく彼の将来はそこで途切れた。そして恐らく、彼と大差ない形で僕の将来も途切れる。いずれは、確実に。

 それはいつしか僕が手に入れた正しさの一つで、手に入れたところでどうにもならない正しさの一つだった。いつの間にか、正しいかどうかは重要ではなくなっていた。重要なのは、正しそうであるかどうか、倫理、その周囲。

 恐らく、あの警官はそのことを知っていた。彼が僕の肩を叩いた後に吐いたのと同じ溜息を、僕も少しずつ吐き出しつつある。


 ◉


 僕の人生に菅野さんが現れたのは、高校二年の春のことだった。きっと何度人生をやり直しても、菅野さんは高校二年の春に僕の前に現れることだろう。そして言うのだ。

「なぜ、無人駅はあんなことを言うのだろう?」


 菅野さんと僕は高校二年のクラス替えで引き合わされ、ある日、互いの通学路が似通っていることに気付いた。下校の経路で言えば、僕らは自転車に乗って校門を出て、かつて軍用機の滑走路であったという平坦な道をしばらく走り、交差する道に出くわすと北に折れて坂を下り、下り切ったところを僕はそのまま真っ直ぐに進み、菅野さんは左に曲がる。

 そんなわけで、下校のタイミングが重なれば自然とお互いを見つけるしかなく、しばらくは見つけ合うだけだったのが、いつやら見つけた方が話しかけるようになっていった。

 話すといっても、大した話をするでもない。小テストや宿題や最近読んだ小説のあらすじなんかを一通り話し終えてしまえば特に話題もなく、あとは互いに黙ってペダルを漕ぎ続けるだけだった。家に帰るためにはペダルを漕ぎ続ける必要はあっても、二人が話し続けなくてはならない理由はどこにもなかった。

 菅野さんと下校していると、通りすがりの人にちらと見られることが多々あった。僕は未だ、女性を語る程の何物をも持ち合わせてはいないが、それでも菅野さんがある種の圧倒的な魅力を、その何事にも無関心そうな表情の下に隠していることは分かっていた。それが異性に強く訴えるのであろうことも。

 しかしやはり菅野さんはいつも何事にも無関心そうで、あまり異性と触れ合わなかった。笑わないとか無表情だとかそういうのではない、ただ無関心そうなのだ。実際、無関心なのかもしれない。そうではないのかもしれない。よくわからない。


 その日もいつものように僕らは下校に乗り出し、どちらかが相手を見つけ、見つけた方が声をかけた。かつての滑走路を走りながら、取り止めもないことを議論して、それから自然と黙った。そして坂を下り切ってすぐの信号で停まった。

 信号待ちに片足をかけたペダルを爪先でクルクル回すのが僕の癖で、その時も自分の前を横切る車を眺めるともなく眺めながら、足元の空白をカラカラと賑わせていた。街路樹は秋の匂いを漂わせ、首筋を伝う汗は風に触れると途端に冷えた。その度に僕は首に手を当てて、季節外れの虫刺されを気にするように、冷えた汗を拭っていた。

 菅野さんはといえば穏やかなもので、信号待ちの時にはすらっと立って、静かに目の前を横切る車を見つめていた。季節外れの首周りも菅野さんには無縁らしく、風で乱れた髪に手櫛をいれる他はこれといった仕草もない。

 それでもその手櫛は優雅なようで、通り過ぎざまに何人かの運転手がちらと菅野さんを見た。その度に僕も菅野さんをちらと見た。菅野さんは相変わらずすらっと立って前を見つめていた。

 化粧気の無い横顔は暮れかけた陽にぼやけて、菅野さんはその淡みから逃れるようにきりっとした黒い瞳を瞬く。切り揃えた前髪のすぐ下で長い睫毛が揺れる。思い出したような汗が一筋、菅野さんの胸元を伝う。すると僕ははっと我に返り、距離を取るように動かした視線の端で、菅野さんの薄く赤い唇が開くのを見る。菅野さんは呟く。

「なぜ、無人駅はあんなことを言うのだろう?」

 僕は逸らしかけた視線を再び菅野さんに向けた。菅野さんは少し首を持ち上げて前を見つめていた。僕が菅野さんの目線を追うと、そこには歪な塊があった。青紫色の空に浮き立つ、巨大で暗いコンクリートの塊があった。それからすぐ、かすかに電車の車輪の音が響いて、周囲の田園が小さく震え始めた。それらを追うように、呼応するように、鉄塔が歪に反響し始めた。

 僕は瞬間、それが何事なのか分からず、眉をひそめて、二三記憶を辿って、そこではっと無人駅を思い出す。すると無人駅はその唸りの重みをどんどんと増し、僕が握った自転車のハンドルを大袈裟にビリビリと振動させた。ブレーキにかけた中指と薬指が痺れた。そして暗い響きが鼓膜の奥の奥を震わせた。

「俺はここにいる。俺はここにいる」

 はっきりとした唸りだった。母親がここにいたのなら、絶対に聞こえないふりなんてさせない。明確に、深く、重い唸りだった。かつて聞いた何よりもどんよりとした鈍痛のような唸り——例えばカラマーゾフが振り下ろした杵が使用人の頭を打ち付けた時、あるいはエンパイア・ステート・ビルから墜落した怪物がコンクリートの地面に叩きつけられた時、その場に居合わせることが出来たなら、これに似た鈍い響きを耳にすることが出来たかもしれない。それは精神や身体や何かの芯を震わせる響きだった。

 僕は呆然としていた。菅野さんはじっと無人駅を見つめていた。信号は青に変わったようだったが、僕も菅野さんも立ち止まったままだった。そして震える周囲に溶け込んで、唸りに呑まれるままにしていた。無人駅は唸り続けた。「俺はここにいる。俺はここにいる」唸り続けた。井戸の奥底から澱んで吐き出される叫びのように、深く、重く——。


 ◉

 
 ——気付けば電車はホームを後にして、唸りは次第に鳴りを潜めた。遠くへ、遥か遠くへと消えていった。無人駅はいつものようにひっそりと、憮然と息を潜めた。

 菅野さんはふうと息を吐いて僕の方を見た。僕も菅野さんを見た。二人の目が合う。菅野さんは何かを待っているようだった。僕はまだ菅野さんの言葉に答えていないことに気付いた。

 僕は母親とは違う。しっかりと無人駅の唸りを聞くことが出来るし、唸りを聞けば無人駅のことを思い出す。無人駅の言う"あんなこと"がどんなことなのか、ちゃんと分かっている。それでも僕は何も言えなかった。なぜ、無人駅はあんなことを言うのだろう。なぜ? ——わからない。

「じゃあ」と言って菅野さんはペダルにかけた足に力を入れた。「また明日」

「うん、じゃあ」と言って僕もペダルを蹴った。再び青に変わった信号を渡って、僕は真っ直ぐに進み、菅野さんは左へ曲がる。菅野さんの仕草が風に揺れて、僕の視界から離れていく。そうしていつものように手も振らずに別れる頃には、もう僕は無人駅のことなんか忘れていた。


 ◉


 それから僕と菅野さんは自然と交際を始めた。そうして自然と別れた。楽しげなこともあったし、酷いこともたくさんあった。どちらかと言えば悲惨だったのかもしれない。もう、どうにもならないことも、ある。それでも、不自然ではなかった。

 その後の菅野さんを僕は知らない。連絡先も残っていない。誰から話を聞くでもない。彼女は、どこに居るんだろう?


 僕らはあの日以来、一度も無人駅の話をしなかった。一緒に唸りを聞くことはあっても、あの日のような体験は二度となかった。菅野さんの唇はきっ、と結ばれたままだったし、僕も何も言わなかった。口にすれば、言ってしまえば、堰を切って、僕らは、彼女は、堰を切って、何かを埋め合わせて、それと同じくらい破壊して、吐き出して、その方が昨日よりはもっと良い、何か、それでも、そうだ、僕らは、一体、何をしているんだろう?


 大学が始まると僕は学生寮に入って、実家の僕の部屋は物置同然となった。長期の休みにも帰省することは少なかった。僕はしばらくの間、無人駅のことは忘れて過ごした。

 大学生活に取り立てた思い出はない。僕はいくつかのグループの友人と話し、何人かの女性と付き合って、喫茶店のバイト代を何やかやに注ぎ込み、空いた時間には本を読んだ。そうしていたらいつの間にか時間は過ぎた。気づいたら多くの時間は過ぎ去っていた。斜塔から落とした砂時計みたいに、僕らの時間は用を為す前に砕けてしまう。観測。砕けてしまって、細かい砂粒が地面に撒き散って、偶然、何かが、像が、象形や何かが、偶然、これは何の話だろう、それでも僕はきっと、そんな時には、意味というものの所在を確かめてみたくなってしまう。


 ◉


 僕が最後に無人駅のことを思い出したのは、大学を卒業する年の冬の終わりだった。

 何やかやの事務手続きのために実家に寄ると、久々に会った母親は僕の内定をひとしきり喜び、他愛もない話に花を咲かせ、それから——地方新聞で仕入れたらしい——無人駅についてのニュースを突然思い出したように話した。それによれば、無人駅はさる国際的な催しに向けて改装され、それ以降、時間制の有人駅になるらしい。少し驚きはしたものの、僕はへえと答えて、特別会話を膨らませることもしなかった。"無人駅は時間制の有人駅になる"。なるほど。そんなこともあるのだ。


 その日の夜、僕は無人駅の唸りを聞いた。僕の人生で聞いた最後の唸りだ。相変わらず、無人駅は暗く重く唸っていた。僕はおいおい、とうなだれた。そして窓を開けて冷気を吸い込むと、こんな事もあろうかと用意していた言葉を急いで投げかけた——無人駅のことを忘れてしまう前に。

(おい、まだ唸ってるのか。君はもう、無人駅じゃなくなるんだぜ。おそらく、みんな、今までよりは君のことに気付くだろう。そんなに巨大で暗いコンクリートの塊なんだもんな、それが普通なんだよ。気付かれることは忘れられることに比べて、一体どんな感じがするものなのか、俺にはよくは分からないが、おそらくそんなに悪いもんでもないだろうよ。もちろん、世間に感情を削り取られることは増えるだろうが、それなら俺も同じだ。そう、同じだよ。世間のどこかに同じ奴がいるってことを知っているのは、そう悪くないもんだろう? そう悪くないもんだよ。だからもう唸るな。安心していいんだ)

 しかし僕の言葉は無人駅には響かず、無人駅は最後まで唸り続けた。僕は、もう勝手にしやがれ、といった気分で、黙って無人駅を睨み続けた。

 無人駅は夜の闇に反抗するように、唸りながら鈍く輝いた。およそ現代にそぐわぬ頼りない灯りを点在させて、宵闇の同胞に合図を送った。同胞は軋轢にききいっと泣いて止まり、彼らはくすんだ灯りの中でひしと抱擁し合った。そして彼らに与えられた短い——本当に短い——時間が過ぎて、哀しい響きの中で離れていった。

 唸りが次第に弱まり、細く擦り切れるようになった時、僕はふと菅野さんのことを思い出した。菅野さんは僕の知るあの頃のままに、すらっと立って無人駅を見つめていた。そして何かを呟いた。僕はそれに答えようとしたけれど、またしても言葉は胸の奥でつっかえ、そんな内に菅野さんは手も振らずに宵闇の中へ消えていった。唸りも遠くへ消え去った。辺りは冷たくしんと鳴った。静寂だった。僕は全部を失った闇夜をしばらく見つめ、そして思った。

(なるほど、君は幸せだったんだな)

 ——それで十分だった。雲間から漏れた薄い月明かりが微かに滲んだ。僕は思う。それで十分だ。将来はともかく、過去はそれで……。

 僕らはきっちり、大きな闇に捕らえられた。一つの時代は終わった。それでも、僕らは確かにそこに居た。確かに、恐らく。そしてこの分だと僕らはしばらくは途切れそうもない。どうせガタガタとレールを鳴らすなら、途切れるまでは、どうか、どうにか。たまには小さな灯りの中で誰かと巡り会う事もあるだろう。その人は"僕ら"のことを知っているかもしれない。そうしたら僕らは心から笑って大きく肩を叩くだろう。飲めないビールなんかも飲んでしまうだろう。そして昔の——遠い昔の出来事を語り合ったりするんだろう。それでいいじゃないか、それで……。

 僕は何度も頷いて、溜息が寒空に消えていくのを見送った。そして閉めかけた窓に反射した自分と目が合うと、慌てて小さく笑いかけ、僕はそれきり無人駅のことを永遠に忘れた。

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