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ADHDのADが三十歳で障害者雇用で働いた結果

わたしは障害者手帳2級をもっている。
2年前に取得した。

病院でADHD(注意欠陥/多動性障害)と診断された。

思い起こせば幼少期からその兆候があった。右と左がわからなくて徒競走を逆走したり、幼稚園を脱走して勝手に家に帰ったり、時計が読めないから時間割がわからなかったり、人の話を聞いていても他のことに気を取られたりする子供だった。特に算数が強烈にできなかった。塾に通わせてもらったものの、ノートを綺麗に書くことに集中してしまい、いつも先生に呼び出されていた。しかし、その理由が自分ではなんで悪いのか全く理解できていないのだ。いつも塾の成績は最下位だった。

大人になってから、ADHDの心理テストをしたところ、チェック項目が全部当てはまった。また別の心理テストをすると言語能力が一般的な人よりも低いと診断された。自分が受け取って、それを咀嚼して人に伝えることが苦手なのだそうだ。それで言うと算数がまさにその作業が必要な科目だと思う。

短期記憶も苦手で、なにかやろうと思っても他のことに気を取られると忘れてしまうし、家ではいつも探し物をしている。常にLINEのリマインくんが鳴り止まない。(LINEのリマインくんというアカウントがあって、それにリマインドしてほしい事柄と日時を打ち込むとその日時にリマインドしてくれる。発達障害者へのオススメライフハック。)

また、診断はされてないがASDの可能性があることもわかってきた。空気が読めない、考えすぎなのに大切なことが欠けている。そのせいか人とのコミュニケーションがうまくいかなかった。働く先々の上司から嫌われてパワハラを受けた。接客業では「お前なんかこの仕事向いてないから辞めちまえ!」と何度も怒鳴られた。普通にしているつもりなのに人を怒らせてしまう才能があった。仲良しグループだと思っていたら知らぬ間にわたしだけハブかれていたり、しまいにはずっと親友だと思って付き合ってた友人に「本当は嫌いだった」と言われてしまう。

実に生きづらい人生を送ってきた。なにもかも、思い出してみると発達障害を起因としていたことが大人になった今、わかった。だからといって取り返しがつくわけでもない。もしかしたらわたしの人間性そのものが人を傷つけていた可能性だってある。特性のせいなのか、自分の人間性のせいなのか、その線引きが難しいのもまた生きづらく、頭を悩まされる日々。

そんな生きづらいわたしでも救われるものがあった。

それがテレビだ。テレビを見ている時は注意散漫になることなく、集中できた。鍵っ子だったので、学校から帰ってたらまずテレビをつけた。とにかく1日中テレビを見ていた。毎日の日課は新聞のラテ欄を見ること。その日見るテレビのスケジュールを決めるのだ。特性からか、テレビに集中してしまうのでごはんを食べるのが遅くていつも怒られていた。深夜のネタ番組も抜かりなく、毎週録画して欠かさず見ていた。親の顔よりみたテレビ。

中でもドラマが一番好きだった。お笑いも同じくらい好きだけど、ドラマは笑い以外の感情にもさせてくれるから。踊る大捜査線、やまとなでしこ、愛してるといってくれ、Love story、古畑任三郎、ロングバケーション、ナースのお仕事、GTO、聖者の行進、ケイゾク、ビーチボーイズ、王様のレストラン、きらきらひかる、カバチタレ!、木更津キャッツアイ、タイガー&ドラゴン、Stand Up!!、ショムニ・・・あげたらキリがない。

泣いたり、笑ったり、ときめいたり、ドキドキしたり、元気がでたり、悲しくなったり。毎週、見れば見るほど没入にしていく。キャラクターや世界観と一心同体になっていく気がした。そんなものをつくりだせる大人たちに憧れた。

そんなわたしも時を経て、今度は映像を撮る側になった。きっかけは高校でCMをつくる授業だった。3人1組の班だったが、他の2人はあまりやる気がなく、ほとんど1人で請け負うことになった。それでも夢中になってやった。絵コンテ作り、撮影準備、リハーサル、撮影、編集まで全てをやった。どれも夢中になってやっていたから辛いと思わなかった。楽しかった。高校でも劣等生だった自分が、こんなにも楽しんでなにかを一貫してやり終えたのが初めての経験だった。

そこから映像にのめり込んだわたしは、映画にもハマり、連日TSUTAYAに通ってはDVDをレンタルし、休日は映画館に通い、映画を見続けた。監督のプロフィールを調べたり、自主制作で映像を作ったりしているうちに受験のシーズンになった。勉強ができないので映像の専門学校を探していたが、大学のAO推薦があるというのを教えてもらい、受けることになった。その受験では与えられた時間で自由にアピールをするという、シンプルなものだった。勉強ができないわたしはもう後先がなかった。これが落ちればもう全て終わりという、決死の覚悟だった。わたしは今まで制作した映像を元に資料を作り、わたしがなぜここで映像制作をしたいかを教授の前でプレゼンすることにした。

結果は合格。

一緒に同じ大学をAO推薦で受けた同級生も全員合格。みんなで抱き合って喜んだ。わたしは元々、高校受験も失敗していて、今まで合格したことがなかった。合格という文字を初めて見て、信じられないという気持ちだった。

しかし、大学生活はあまりうまくいかなかった。人間関係のもつれや、アルバイトでの度重なるパワハラで心身を病んだ。毎晩金縛りで眠れなくなり、味覚がなくなって食事をしなくなり、毎日涙が止まらなくなった。うまく喋ることができなくなり、友人とも距離をとった。ひたすら大学、アルバイト、家の往復。見える景色が、灰色だった。なにも感情を感じなくなっていた。

そこでわたしが考えた打開策は、就活だった。就活している同級生がほとんど周りにいなかったため、自分だけいいところに就職して一発逆転してやろうという魂胆だった。

エントリーシートを書く日々が始まった。とにかくインパクト勝負だと思って変なエントリーシートを書き続けた。面接まで結びつくものの、落ち続ける日々。いいところまでは行くのに結果はついてこなかった。もう一通り落ち切ったところで心が折れた。わたしは社会に必要とされなかった。そんなときに、全く就活をしていなかった同級生がもう働いているというのを小耳に挟んだ。話を聞いてみると、先輩から紹介されたらしい。その流れでわたしも会社を紹介してもらえることになった。

そこはテレビ制作会社だった。プロデューサーとアシスタントプロデューサーとの面接が行われた。大学生活と就活の過度なストレスで精神が安定してなかったわたしは面接中に泣き出してしまい、仕切り直してくれることになったものの、それもうまくいかず不採用になった。もうダメだと思った。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。同じ会社の別の番組のプロデューサーが、イラレ、フォトショができるわたしを見込んで採用してくれることになった。

わたしがADをすることになったのは、経済学を軸とした勉強バラエティ番組。お笑い芸人さんと大学教授が進行を務め、毎回テーマに沿ったゲストをお迎えし、経済学を学びながらトークしていく構成になっていた。

ADとは、ご存知かと思うがアシスタントディレクターの略なわけで、つまり、ディレクターのアシスタント。ディレクターとずっと付きっきりで仕事をするのだ。

初めてついたディレクターはとにかくコワモテだった。大柄で金髪で、殴られたら絶対痛そうなゴツい指輪を付けた男性で、見た目通り怖い人だった。感情的で、すぐ怒鳴られるし、なのに思春期の女の子のように繊細なところがあり、傷つきやすく、礼儀に厳しく、なんでも自分で手作りしたがるクリエイティビティを持っており、自分独自のルールがある難しい人だった。しかし、私生活では双子の女の子のお父さん。時間が少しでもあると家族の話をしてくれた。情に熱く、あたたかい人でもあった。

採用されて、初めてディレクターとやりとりしたメールを今でも覚えている。「ADはアシスタントディレクターです。アシスタントでもディレクターなのです。いつでも自分がクリエイティブしているという心を忘れないでください」

そこからADとしての生活がスタートした。

まずはリサーチ。ディレクターが台本作りに必要な資料集めをしたり、ロケ場所を調べたりする。先輩はいたが、先輩も仕事があるので付きっきりで指導してくれる人はおらず、自力でやるしかなかった。

リサーチが終わるといわゆるロケハン。ディレクターと一緒にその場所でどんなことができるか、どんな撮影が可能か可能性を探っていく。

そして出演者との打ち合わせ。今何が気になっているか、ディレクターのやりたいことに対してどんな考えがあるかを聞き出したりする。ディレクターが打ち合わせで聞き出したことをまた台本に落とし込んでいく。

レギュラー出演、ゲスト出演、との打ち合わせが終わり次第、ロケを行うスケジュールが決まる。その日撮影可能なロケ場所を決める。ロケ場所の使用時間や出演者のロケ当日のスケジュールを決めたり、技術、ロケバスの手配、ロケ弁の手配、小道具の手配やものによっては手作り・・・など多岐に及ぶ。やってもやっても仕事が終わらない。終電で帰って朝起きたらすぐ出社する日々を繰り返す。

やっとロケの日になるとロケ前の台本の確認、印刷、各所へスケジュールの送付、ロケバスの集合場所の確認、収録テープをもらいに行ったり、荷造りなどで慌ただしい。終電で帰ったら朝に間に合わないので会社の床で寝ることもしばしば。そういうときは決まって車の往来が多い歩道橋から身投げするか明日のロケ日を迎えるか悩んだ。それくらい、追い込まれていた。

ただ目の前のことに必死に喰らいつくしかなかった。

ロケが終わってからも仕事は終わらない。撮影された収録テープは命より大切だと教え込まれた。ロケ場所、数台のカメラ、録音器具、ロケバス、マネージャー、プロデューサー、ディレクター、AD、演者。

みんなの一瞬で発揮される全ての力がここにあって、もう2度と同じことはできない。命より大事な収録テープを編集所へ持っていく。それはそれは重大な任務。テープを無くしたらと思うと気が気ではなかった。

そこから地獄の編集。ここからはもうほとんど家に帰ることはできない。ハードディスクに移したデータをすべてPCに取り込み、その素材全てを同じ時系列に並ぶように下準備をする。これがわたしは一回説明されただけでは理解ができず困難を極めた。

次に苦しいのが文字起こし。出演者の発言を全て文字に起こししていく。最短でも6日はかかった。ひたすら動画を再生して、出演者の咳払いまで文字として書き起こす。文字起こししたデータを印刷してディレクターに渡す。

文字情報からここの発言は使いたいな、とか、ここはダメ、こことここを繋げることで伝わりそうかも、とかそんな作業をただ地道にやっていく。ディレクターが編集している間にも、仕事は山積みだ。撮れ高が少なければ新たに取材を組んだり、街頭インタビューをしたりする。この街頭インタビューがわたしは本当に苦手だった。誰も得しないのにインタビューに答えたいか?と思うと誰にも声をかけられなかった。しかし、ここはADが心を殺してバンバン話しかけないといけない。

ディレクターには怒鳴られてばかりだったけど、プロデューサーや、先輩、デスクさん、みんなにたくさん優しくしてもらった。先輩も忙しいのに、できる限りの時間でわからないことを教えてくれた。みんなでごはんに行ったり、夜通しでロケの仕込みをしたり、自分の発案したキャスティングが採用された時は嬉しかった。いつも何が困っているか話を聞いてくれたし、いいところは褒めてくれた。チームで仕事をやっていることの楽しさを感じていた。

ディレクターは、怖いし怒鳴られてばかりだったけど、将来ディレクターとして困らないようにと育ようとしてくれていた。始めたての頃はごはんを全部奢ってくれた。台本はディレクターの心だから丸めて尻ポケットに入れるなと怒られたり、テロップの作成が雑すぎて使えないと怒られた。かとおもえば、急に大きなおなかを出して「ぼよ〜ん」とか言い出したり、銀杏BOYZが好きだと言ったら、峯田と一緒に仕事をしたことがあるよと言われて締め切りまで時間がないのにその当時の映像を夜な夜な一緒に見たりした。途中、「お前を育てるためには怒らないようにする」と言い出して怒鳴るのをやめてくれた。感情の起伏が激しい人だったけど、本当は優しくて、あたたかくて、創作意欲が強くて、教育熱心で、尊敬していた。

ある日、番組の素材で撮影したいものがあり、飲食店を訪問し、撮影交渉しようとした。ふと近くの公園で少し休んだ。

不思議だ。体が全く動かない。涙も出てきて止まらない。それまで普通に働いていたのがぷっつりと途切れてしまった。持っていたカッターで自分の首を切りつけようとした。が、できなかった。

スマホの電源を切り、そこからの記憶は朧げで、どうやって帰ってきたかもわからず実家に帰っていた。母親はそれみたことか、と満足げな表情で「そうなると思っていた」と言った。誰とも連絡を取らず寝たきりの状態で数日すごした。ごはんを食べた記憶も風呂に入った記憶も、眠った感覚もない。ただ仕事のことが頭にたくさん浮かんでいた。これもやらなきゃいけない、あれもやっていない、あれをやるならこれもしなきゃ、と終始呪いのように頭を駆け巡った。強い思いはあるのに、罪悪感で会社には出社できなかった。

1週間くらいか、やっと会社と連絡を取った。どんな連絡をしたかも覚えていないが、とにかく1度会社に行くことになった。そこでプロデューサーと退職する話をした。とにかくもう心身ともに無理ということを伝え、手続きをした。プロデューサーの心遣いで、ディレクターとは対面しないように配慮してくれた。一番迷惑をかけたディレクターに顔向けもできないまま、辞めた。

最後に、と思って直筆で手紙を書いた。今回迷惑をかけてしまったことの謝罪。育ててくれようとしていたのに応えられなかった謝罪。直接挨拶できなかったことへの謝罪。とにかく今できることは謝罪の気持ちを述べることだけ。このときの情けなさは昨日のことのように思い出せる。なにも成し遂げられない自分が情けなくて仕方がなかった。こんなに良くしてくれた人たちに恩を仇で返すようなことをしてしまって、申し訳なくて仕方がなかった。泣いても泣いても、なにも取り戻せない。なにもできない。

今思えばADHD、ASDを抱えながら(AD当時は自覚なし)大人数の人と関わる仕事はかなり大変だったと思う。そもそも、大学で心身を壊してから、なにもリカバリーせずに就活に舵を切ったこともかなり大きなストレスだったはずだ。それに追い打ちをかけるように就活の失敗。もう、精神の限界はとっくに超えていた。

どこが間違いだったのか、なにが悪かったのか、今となってはたらればでしかない。もう限界だった。これが例え就活がうまくいっていたとしてもこうなっていたのだろう。



7年の時を経て、今わたしは障害者雇用としてテレビ局で働いている。なんの因果か、またわたしはテレビと関わっているのだ。

黒ずくめの服に、ショルダーバッグを抱えた女の子とすれ違う。ああ。わたしもあんなだったのかな。

ADを辞めて数年経ってから障害が判明したものの、障害のことを隠して働いてきた。トラブルは絶えなかった。仕事もミスばかりだし、朝起きれないので遅刻をする。急な体調の変化で当日欠勤をしてしまう、などで職場に迷惑をかける。迷惑をかけることで職場の人たちとも人間関係がうまくいかなくなる。そのことが大きなストレスとなりまた体調が悪くなり欠勤が増える、どんどん職場に行きづらくなる、そういうタイミングに限ってお客さんにクレームを入れられる、など踏んだり蹴ったりだった。

もうさすがに同じ鉄は2度踏まないように・・・と考え、30歳になって初めて障害者雇用で職を探した。それが今の職場だ。まさかまたテレビに関係する場所で働けるなんて思っていなかった。ADをしていた経験が功を奏したらしい。

勤務は週4日。仕事内容は、倉庫の整理、座席表の作成、簡単なデータ入力、不要な書類をシュレッダーにかける、など。ミスしようのない仕事内容。それなのに、予想を遥か超えたミスをしたり、教えてもらったことをすぐに忘れたり、当日欠勤もしょっちゅうする。それでも怒られない。ミスしても他の人がカバーしてくれる。どこがわかりづらかったかヒアリングしてくれるし、忘れない方法を提案してくれる。マニュアルを作ってくれる。同じことを何回も聞いても優しく教えてくれる。怒られない。

初めての恵まれた環境。一緒に考えてくれる。提案してくれる、話を聞いてくれる。工夫してくれる。クレーム入らない。怒鳴られない。パワハラされない。床で寝たりしなくていい。

一方で、わたしと同じ場所で、その人にしかできない仕事を一生懸命やっている人がいる。

わたしは、わたしじゃなくてもいい仕事をしている。だから突然休んでも誰も困らないし、誰かに迷惑がかかることもない。それが申し訳なくて、やっぱり社会に必要とされてない気がして、でもこれしかできなくて、途方もない気持ちになる。

障害者は社会に必要とされたいと思ってはいけないのではないか。

障害者は夢を見てはいけないのではないか。


そんな折に、「アンメット」というドラマを見た。事故の後遺症で、記憶が1日しか持たない障害を持つ脳外科医が主人公のドラマだ。(めちゃくちゃいいドラマなので本当にたくさんの人に見てもらいたい。Netflixで見れます。ただの医療モノとは一線を画したヒューマンドラマです。)主人公のミヤビは脳外科医でありながらも、記憶障害があるため医療行為はしないようにしていた。しかし、突然異動してきた脳外科医、三瓶に医者なのだから医療行為をするべきだ、と勧められる。それをミヤビが断る。そのときの三瓶は

「じゃあ障害を持っている人は人生を諦めてただ生きていればいいと思っているんですか」

とミヤビに言い放つ。

わたしは、そう思っていた。障害があるから、自分に期待してはいけないんだ。人生に諦めをつけて、こんなになにもできないから、できないと人に迷惑がかかるから、人に迷惑をかけると自分も傷つくし、また距離を置かれるから。障害を背負って生きるのはそうやっていくしかないんだって思っていた。

またわたしはドラマに救われていた。障害者でも、諦めなくていいんだ。

できないことだらけなのに、働かせてもらっている立場なのに。そんなの、思っていいんだろうか。社会に必要とされることを、まだ、諦められない。わたしじゃなきゃダメなことがしたい。もう30歳なのに、障害者なのに、今さら夢ができてしまった。

ドラマの脚本が書きたい。

毎週を楽しみにする感覚をわたしもさせてみたい。たくさんの、いろんな人をいろんな感情にさせたい。わたしと同じような思いをしてきた人に人生を諦めてほしくない。

本当は幼い頃からずっと思い続けてきたことだったんだと思う。それも先天的な障害、度重なる人間関係のストレス、体調不良や鬱で、今まで自覚する余裕がなかった。本当はずっと答えが出てたのに見ないふりをした。自分の心の声をよく聞かなかった。目先の利益に走った。そのツケが今全部回ってきてる。だからこんな歳でこんなこと言い出してる。書いてる。

恥ずかしくて、悔しくて、情けない。

でも諦められない。一度想ったら諦められない。ただ生きるだけの人生に戻れない。なんの努力も積み重ねも、実績も経験も経歴も、なにもないのに。なんでこんなに諦められないんだろう。なんでこんなに諦めが悪いんだ。

ただただドラマが好きで、ドラマを作る人が好きで。わたしがドラマをつくることで誰かの光になりたい。

わたしがドラマの脚本を書けるかわからない。脚本家になるのが夢です、と宣言していいのかわからない。けれど、夢を諦められない障害者がいてもいいんじゃないか。

それでも、30歳からでも、もう間に合わなくても、一生懸命もがいて、夢が叶わなくても、その先になにかあるって期待しても、いいんじゃないか。

30歳、障害者雇用で働いてようやく見えた光。この光を諦めずに抱きしめていられるか。ここから始まる。





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