使われなくなってきた言葉について

現代日本語の辞典には当たり前のように載っている言葉でも、現代の日本語話者の話し言葉としてはあまり聞かれない言葉というものがある。

「気立(きだ)て」という名詞は、「他人に接する時の態度に表れる、その人の心の持ちよう」という意味だ。例えば「気立ての良い人」と言えば、ようするに「性格が良い人、親切な人」という意味になる。昭和20年代に流行した『リンゴの唄』という歌の2番にも、「あの娘よい子だ 気立てのよい子」という歌詞が出てくる。この「気立て」という言葉は、少なくとも現代の日本語話者の話し言葉としては、もう全然使われていないように思う。この言葉を周りの人々が使ってるのをほとんど聞いたことがない。私自身にとっても、「気立て」は馴染みある言葉じゃない。知識としては知っているし、聞けば一応分かるけれど、自分ではまず使わない。「気立ての良い人」は、私だったら単に「性格が良い人」、あるいはもっと簡単に「良い人」と言うだろう。

「懇(ねんご)ろだ」という形容動詞は、「親切で丁寧だ」「(特に異性の仲が)親密である」という意味の形容動詞だ。私自身は、なんとなくこの言葉が気に入っているので時々使うこともあるのだけれど、私の周りの人々はまず使わない。ことし4月、大学の時のサークルの後輩たちと一緒に映画を観に行った。映画を見終わったあと、近くのピザ屋に入ってみんなで談笑した。そのうち誰々と誰々が恋仲になってるという話題になった。「それにしても一体ふたりはいつから懇ろなんだい?」と私が言ったところ、後輩たちは「懇ろ」という言葉に戸惑って、「えっ、ネンゴロ……?」と笑い出した。みんなにとっては、私が何気なく発した「懇ろ」という言葉が、ひどく珍妙なものに聞こえたようだ。

他にも、「つつがない」「心ばえ」「おおどか」「かたじけない」「かしましい」「立ちどころに」「出し抜けに」「ぶりぶりと(怒る)」「まんじりと」「そねむ」「ひょうきんな」といった言葉も、現代の話し言葉ではまず使わないように思う。少なくとも私はそうだ(私がこれらの言葉を知ったのは、日常生活を通じてではなく読書を通じてである。でももし常日頃からそれらの言葉を当たり前のように使っておられる方がおられたらごめんなさい。あるいは方言によっては、今でも普通に使っている方言もあるかもしれない)。それにもかかわらず、これらの日本語は、岩波だろうと三省堂だろうと、あらゆる国語辞典に載っている。彼らは、あたかも自分らが「読む」「取る」「食べる」などといったごく基礎的な語彙と同等の資格を有する者であるかのように、「ええ、私たちだってごく普通に通用する言葉ですとも」と、すました顔をして見出し語に並んでいる。

一応大学で少しく言語学を学んだ者として、「最近の日本語は乱れている! 昔の人々が話す日本語はもっと上品だった!」などという偏狭な懐古趣味に与するつもりは一切ない(大体その理屈で言ったら、彼らが良い日本語とみなしているところの共時態だって、それより前の時代の共時態から見れば乱れた日本語ということになる。兼好法師も、『徒然草』のなかで、最近の貴族ときたら、「車もたげよ」を「車持て上げよ」などと変な言い方をする!と嘆く老人の話を紹介している。そんなわけでどんどん時代を遡っていって、奈良時代の上代日本語、いな再建した日琉祖語で話すのがけだしもっとも美しくて正式な日本語ということになろう!)。言語というものは、話者がいる限り絶えず変わっていくものだ。そして言語に優劣はない。ある時代に話されている言語が、その前の時代に話されていた言語よりも劣っているなどということはない。どの時代においてもそれを話す人々の間で十分に機能を果たしていたわけだから。

もちろんそれは分かっている。けれども、「気立て」「心ばえ」「懇ろだ」と言った言葉が使われなくなっていることは、現代の日本語話者から表現の豊かさが失われていくことでもあるような気がして、ちょっと寂しくもある。そしてそのうち日本語の辞書にも、これらの見出し語には(古)(文)(雅)などの印が付されるようになるのだろう。


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