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銀河鉄道の夜 またまた考察

七、北十字とプリオシン海岸

車窓の景色では三角標の他に「りんどう」の花が出てきます。
りんどうの花は秋の花で、お彼岸にも使われる事で知られています。
星座早見から夏とされていましたが、ここだけを見ると秋で、りんどうの開花時期からも9月~10月と考えられます。

青白い後光が射した十字架を過ぎると、白鳥の停車場に着きます。
停車時間は20分ですが、到着時刻は二人の会話から11時だと明かされます。
夏の夜空が一瞬で秋の夜空に変わりました。
因みに、星座早見を9月下旬の11時に合せると、天の川は北東から南西に傾きます。

停車場で降りてみると、駅員や他の乗客の姿がない。二人は車窓から見えていた河原へ行き、河原の砂を手にして

「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えている。」
「そうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったろうかと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。

P212、3行目

砂の一粒一粒は生命です。
天の川は生命の源であり、その河原にある砂粒は全て生命の種というのが私の解釈です。

プリオシン海岸では化石の発掘が行われています。発掘現場へ行く途中、大きなクルミの実が沢山ある事に気付きます。
そして、発掘現場では大学士が作業を監督しており、その大学士に
掘り出した化石を「標本にするのですか?」と問うジョバンニ。
それに対して「証明する為だ」と大学士は答えます。
何を証明するのでしょう。

掘り出している化石は牛の先祖と言われる「ボス」という動物のもの。
大きなクルミは120万年前のものである事などを大学士から聞き、発車時刻が迫っているので急いで停車場へ戻るというあらすじになっています。

クルミとは何か、ボスとは何か、何を証明しようとしているのか。

このあたりの解釈で面白い論文がありますので、リンクを貼っておきます。
石井 竹夫 人間・植物関係学会雑誌 = Journal of Japanese Society of People-Plant Relationships 15 (1), 35-38, 2015-09-30

http://www.jsppr.jp/academic_journal/pdf/Vol15.No1_P35-38.pdf

この論文ではクルミの実を「化石」として論じています。
花巻の北上川流域とイタリアでクルミの化石が採取できるという事実から、物語のモチーフとして使われたというものです。
 ※銀河鉄道の夜はイタリアが舞台と言われています。
クルミは法華経、ボスは牛ですので、牛乳が連想されますし、牛乳が持つ宗教的な意味などが、すっきりまとめて書かれている論文で面白いです。

「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れてきたんじゃない。岩の中に入っているんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」

P213、7行目

岩の中にあるならやっぱり化石でしょうか。でも化石が少しも傷んでないなどという事があるでしょうか。化石なら腐敗はしていないでしょうけど。。。
それはともかくとして、なぜ「傷んでいない」と表現されたのか。ですね。
120万年経っても傷んだりしないもの。長大な時間経過でも変わらない不変のもの。それこそが真理、或いはそれに近いという暗示だろうと思います。

八、鳥を捕る人

ここで新たな乗客が現れます。鳥捕りです。
赤ひげで、背中のかがんだ人で、白い布で包んだ荷物を二つに分けて肩に掛けている。その荷物の中には捕った鳥が入っている。
鶴や雁、鷺や白鳥を捕ると言っています。

鶴はどうやって捕るのかと聞かれた鳥捕りは、鶴ですか鷺(さぎ)ですかと聞き返し、さぎですとジョバンニは言い直す。
すると鷺は天の川の砂が固まってできるから、始終川に帰ってくる。そこを捕まえるのだと答えるのです。

鶴について聞いたのに、鶴か鷺かと返されたら、どっちでもいいと思って鷺ですと聞き直すのが妙です。

「鶴どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺ですか。」
「鷺です」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。

P218、4行目

どっちでもいいというのは、単に鳥の捕り方を知りたかっただけですね。

「そいつはな、造作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、・・・略・・・するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」

P218、7行目

生き物は天の川に帰ってきて、砂粒になるという解釈が成り立ちます。そしてそれらが固まって又、生まれ変わるという事でしょうか。
その過程で、食べ物になる命もある。

鷺(さぎ)よりも雁(がん)は直ぐにでも食べられると言って雁の足を千切ってジョバンニとカムパネルラに食べさせます。
カムパネルが、これは鳥ではなくお菓子だと言ってしまうと、そそくさと鳥捕りは席を立ちます。

なんだか狐につままれたようなやり取りです。
前章でご紹介した論文では、鷺(さぎ)は詐欺(さぎ)を暗示しており、鳥捕りは二人を騙しているという意味の事が書かれています。

二つに分けた荷物には「鶴(true =ほ んとう)」や「鷺(さぎ=うそ)」などが入っている。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するクルミの実の化石(後編)

又、論文には書かれておりませんが、鶴は法華宗や日蓮宗の紋章として使われる事からも、鶴を法華経とする説は興味深いです。

「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子でしょう。」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「そうそう、ここでおりなけぁ。」と立って荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。

P221、後ろから5行目

鷺はすぐに食べられないが、雁は直ぐに食べられるというのも、真理は簡単に得る事ができないという意味にも取れます。しかも、その鷺ですら真理かどうか怪しいわけです。
クルミも鶴も賢治の中では法華経(真理)に繋がるメタファーである事が見えてきます。

どれ(鶴か鷺)が真理かわからないけど(どっちでもいいけど)
どうやって、ほんとうのさいわい(鳥)を得るのか(捕るのか)という意味にも取れます。

汽車を降りた鳥捕りが、鳥を捕ったあとに、又瞬間移動して車内に戻ったあと、どうして一瞬で移動できるのか?と問われた鳥捕りは、それに答えず、あなた方はどこから来たのかと、逆質問してこの章は終わります。

「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」

P223、後ろから6行目

この章では、鳥捕りと、ジョバンニ、カムパネルラの問答で、物語が進行していきます。そもそもこの作品は問答がよく出てきますが、特に銀河鉄道に乗ってからは、その連続です。こういうところが仏教の経典のようですね。
釈迦が弟子に問うたり、弟子が釈迦に問うたり。
この事からも、賢治がこの作品でやろうとしている事が、読み手に何かを悟らせようという事、そういった狙いがあったのではないかと思えてきます。

鳥捕りが二人に出会った時、軽い挨拶の後、最初に問うたのは

赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に訊きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」

P217、2行目

つまり、鳥捕りの問いは
どこからきて、どこへ行くのか
です。

そして、その質問にはまともに答えていません。思い起こせば、作品の冒頭の問いかけ、天の川の正体についても、二人はまともに答えていないのです。

さて、このあたりが、この物語のほぼ中間地点です。
ページにして40ページほど。
次の九章が、実は最後の章になります。

九、ジョバンニの切符

この章が物語の半分を占め、且つここからいよいよ核心に迫ろうとしているように思えてきます。

もうここらは白鳥区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。

P224、九章の冒頭

アルビレオとは白鳥座のくちばしに位置するβ星です。この星はオレンジ色の星と青い星の二重星です。
作中では、サファイア(青宝玉)とトパーズ(黄玉)の二つの石がくるくる回っている測候所の描写があります。
鳥捕りの説明によると、水の速さを はかる器械とのこと。鳥捕りが更に説明をしようとしたところで、赤い帽子の車掌が現れ、検札を開始します。

鳥捕りもカムパネルラも、造作なく切符を見せますが、ジョバンニはそもそも切符を持っているおぼえがありません。
ところがポケットを探ると何やら覚えのないものが出てきます。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。南十字(サウザンクロス)へ着きますのは、次の第三時ころになります。」

P226、3行目

これが、松岡幹夫著「宮沢賢治と法華経」によれば、日蓮図顕の曼陀羅ではないかとのことでした。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」

P226、後ろから4行目

どこでも勝手に歩ける通行券。自由自在な仏の境地 そのことだと言われれば確かにそのようです。

「もうじき鷲の停車場だよ」とカムパネルラが、地図と窓の外の三角標を見て言う。

ここでジョバンニの心境の変化が訪れます。鳥捕りが急に気の毒に思えてきたそうです。鳥を捕って喜んだり、それを白い布でくるんだり、他人の切符を見て驚いたりするさまを見て、急に気の毒になり。この鳥捕りの幸いのためならどんな事でもするというような勢いで、ジョバンニの思いが綴られていますが、正直なところ

「え?どうして?」といったところです。

恐らく、自分が持っていた切符が、無上のものであったから。
他人を気の毒がって、他者へ施してあげたいという利他の精神が芽生えたという事でしょうか。
ところが、そういう思いをいっぱいに抱いて、鳥捕りのほうを振り返ると、いつの間にか居なくなっています。

もっと声を掛けてあげれば良かったと後悔するジョバンニ。
僕もそう思う、と同意するカムパネルラ。
なんだかあの人が邪魔なような気がしていたんだ、とても寂しいと、更に後悔を重ねるジョバンニ。

このあたりのジョバンニの心境が、わかるような、わからないような気がするのは、私が未熟な凡夫だからでしょうか。

キリがいいようですので、今回はここまで。
ではまた。





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