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思ったこと【バンザイシステムから始まった思考について、徒然なるままに】

 ねこっちです。思考の連想とは自由なもので、曲を聴いていると様々に考えていることや思っていることが飛び火して、過去の出来事や新しいアイデアなどを思うものです。今日は、ある好きな歌を聴いていた時に、ふと「河合塾 バンザイシステム」というものをなぜか思い出しました。

 この記事を書いている現在、その「バンザイシステム」なるものを開こうとアクセスを試みたものの、システムの公開が2024年1月17日(水)とのことで開けませんでした。今日はこの「バンザイシステム」についての私の記憶の断片と、そこから思うことを書いていこうと思います。


バンザイシステムの記憶

 私は、特に受験本番の直前などの重要な局面においては、自分に対して相対的な評価をすることを避けてきました。今の自分はそれまでの自分の自然な結果なのであり、これからも自然に従ってそうなっていくので、そこに他者からの無理な評価が入ると保っていたバランスが崩れてしまいます。受験本番の前であれば、特にこの「バンザイシステム」などは私にとってはもってのほかです。結果が良かったのであればいざ知らず、こんなものを見てしまった日には、まだやれるかもしれない自分の可能性を閉ざしてしまうように思います。私は、現役のころも浪人のころも、このようなものは絶対に使いたくありませんでした。

 しかし、高校3年時、センター試験を終えた直後に三者面談というものがあり、私の通っていた学校ではそれは生徒全員に課されていた義務でした。私がその三者面談を受けた当日、部屋に入るや否や、当時の担任がいきなりノートパソコンを開き、私の前で私のセンター試験の点数をさっさとパソコンに打ち込み、あろうことか「バンザイシステム」の画面で腕を自信なさげに上げている生徒の絵を私に見せてきました。私はたいそう嫌なものを見てしまった、と思いました。案の定、その後精神の調和が乱れ、受験は失敗したのでした(もっとも、この「バンザイシステム」だけが受験に失敗した理由ではないですが)。

バンザイシステムに思う教育の嫌なところ

 このような、嫌な代物を思い出してしまったものですから、せっかく曲を聴いて楽しかったのが一瞬曇ってしまいました。しかし、私はそこで「ではそれの何がそんなに嫌だったのか?」と問うてみました。すると分かったのが次のようなことでした。

 まず、バンザイシステムは受験生を煽るような働きをしていることが嫌だったのだとすぐに分かりました。受験生は、志望校合格のために人生をかけて戦っています。それに対し、志望校合格の可能性を、視覚に訴える画像とともに志望校を実際に受けてもいない段階で見せられてはたまったものではありません。A判定で手を高く上げている絵が出てくればまだしも、C判定などでどこか自信なさげに手をあげる画像は、残されている可能性すらも無に帰すような力があるように思えます。


バンザイシステムの一例(共通テスト)


バンザイシステムの一例(センター試験)

 いいですか、その人の人生や価値観を左右する受験に、しどろもどろしながら手をあげるような迷いがあってはなりません。やるのであれば、全力で受験するのです。大学受験は自分がすると決めた選択なのですから、後はそこに向かってできることを淡々とすればよいのです。

 しかし私がそれ以上に違和感を覚えるのが、大学入試を自分が決めた選択だと思えないことがあることです。「ほかの人も大学に行くから」「いい職業に就きたいから」と、受動的に大学入試を考えてしまうことがあること、これが残念でならないのです。これは受験生が悪いのではなく、私は3歳から18歳までの教育が一役買っているように思います。

 人には知的な欲があります。分からないことを知りたい、分かるようになりたいという欲です。これが旺盛なのが幼児のころで、ですから人には「なぜなぜ期」というものがあると聞きます。教育とはこのころに人生に関わりをもち始め、先生の言うことをきけとか、みんな同じ歌をうたえとか、テストでいい点を取れとか、宿題を期日までに出せというように教え込みます。つまりその人の考え方や感じ方を一般の通りに刈り込んでいきます。いわば万人に足並みをそろえさせるように働くのです。ですから小学校を卒業するころにはもう「なぜなぜ期」などないのが自然で、てこの原理で重いものを小さい力で持ち上げられると習ったり、中和反応で酸性とアルカリ性が中性になると学んだり、古典文法を知って古代の人の知性や感性に触れる機会を得たりしても驚かないことが多いように思います。本当はこれらも驚きに満ちた物事であるにもかかわらず、それに疑問や感動を感じないまま覚えていくのが普通になってしまっています。

 「人は皆天才である」という言葉は解釈が幾通りもできますが、一つはこれを指すのではないでしょうか。つまり、幼児期の「なぜなぜ期」の感性をもっていれば、学校で学ぶことほど感動と驚きの満載なものはないのです。ただ「水兵リーベ僕の船・・・」と唱えるより、元素たちがまざまざと見せる色合い豊かな反応や性質の世界に浸るほうがよほど身になるように思います。

 散々他者と足並みをそろえさせられた挙句、待っていたのがバンザイシステムでの評価では、どこか悔しいように思います。人の人生に有無を言わせずに介入して、皆同じ姿に刈り込む教育、私はこれが嫌でたまらないのです。

更なる落とし穴

 この「教育は人を同じ姿に刈り込む」ということは、大学入学後、自由を感じるようになって私が真っ先に思ったことでした。そのため、大学に入った年の私は、これからの勉学でやりたい学びを取り戻してやる、と意気込んで学んでいました。

 しかし、これが更なる落とし穴でした。特に大学での学びというものは一朝一夕に成果の出ないものです。まるで木が成長する過程で地中に根を張らすように、ゆっくりと見えないところで育っていくものです。しかし、当時の私は焦っていました。小学生時代は特別支援学級で自由に学んでいたので、中高の6年間が私にとってのある意味で「刈り込まれた期間」でした。そこでこの期間の自分を取り戻そうと必死になるあまり、現状の自分を見ては「こんなものでは駄目だ」「自分はこんなはずではない」と考えるようになってしまい、肝心の学びたいことが十分にできずにいました。つまり、「やりたい学びを取り戻してやる」と思って学ぶことは、私には合わない方法なのでした。

 うまく学べない自分に焦り、その焦りがさらに学びを苦痛にさせるという悪循環に落ちていました。

 「教育は人を同じ姿に刈り込む」という考えは、当時の私には致命的なもので、学ぶことの驚異と感動を大事にしたかった私は何よりもそれが悔しかったのでした。

思わぬところにあった解決策

 それから4年余りが過ぎました。今の私は、当時の学びに対する葛藤があったころに休学を繰り返したため、まだゆっくりと学部生として学んでいます。しかし、今の私は当時にはなかったものを実感しているため、学びに関するその悩みには悩むことがなくなりました。

 過去の私は、自分の頭脳が刈り込まれたかもしれないということが、どうしても許せませんでした。しかし、今は過去の自分が刈り込まれていようが、特にそれは問題ではなく、今の自分が最高の学びをできていればそれでいいと思えています。

 今の自分がここにいる以上、それに対して過去がどうであったというようなことは、考えるだけ無意味なのだと今は思います。今の楽しさ、充実、幸せを阻害するものには執着せず、今このときをありのままに享受することが大事なのだと気付きました。ですからもう過去の自分が悩んできたような「才能論」や「子どもと大人」も自分には問題ではなく、自分に才能があろうとなかろうと、子どもであろうと大人であろうと、今を生きていればそれでよいのです。この考えを自分のものにし、それをかみ砕けるようになってようやく、かつてのような学びに対する葛藤は消えました。

最後に

 今は「今を生きる」というただそれだけを目標に毎日を過ごしています。そう思えるようになったのは今年の10月でした。今年は様々なことを学んだ1年でした。今日まで生きてこられて、今年多くのことを学べたことの奇跡に感謝します。

 最後に、私の尊敬している人に岡潔先生という数学者の方がいらっしゃるのですが、その方の言葉に「学問は人ができないとできない」というものがあったように思います。物事にこだわらなくなり、悩んでいたころの自分も自然に俯瞰できるようになり、学びに対する恥や劣等感も消え、ただ貪欲に勉学に励むようになると、その言葉をよく実感します。今年までのこの過程そのものが、私の「人」が少しずつできてくる道筋だったのだと思います(もっとも、私は未完成であり、さらに私という人は命を全うするその時まで完成することはないでしょう。)。

 今日は、バンザイシステムに始まった一連の思考でここまで書いてきました。ここまでお読みくださった方に、改めて感謝申し上げます。ありがとうございます。

 今年も残すところわずかとなりました。今年は大晦日に今までやったことのない工作にチャレンジしようと思っています。そのことも追々noteに書いていければと思います。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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