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未来のだれかのために。

この前、おじいちゃんの命日の話を書いた。


今日はそのおじいちゃんの誕生日。

大好きなお酒で乾杯。

写真は、イスラエルのガリラヤ湖のほとりにたたずむおじいちゃん。

聖地旅行のときの写真。

ちょうど今日、母と電話をして、おじいちゃんの話になった。

おじいちゃんは大阪で育ったけど、早くにお母さんを亡くし、関東の高校に行き、東大に入ったけど、官僚になるのはまっぴらごめんで、小説家をめざすも、祖母と見合いし、祖母の父親のコネで新聞社に就職したらしい…。

おじいちゃんはとにかく変わった人で、というのが、祖母の口癖だったそう。

そうそう、わたしの名前は、おじいちゃんがつけたんだった。

わたしの父ともめたらしいけど笑

だから、なんとなく、そう、

どうやったって、おじいちゃん子

なんだよね。

でも、ずっと、わたしは、おじいちゃんが亡くなってから、自分の感情にふたをして生きるようになった。

傷つくのがいやになった

繊細に生きるのをやめて、鈍感になった

自分が何をしたいか、ずっとさっぱりわからなかった。

なんのために生きているかもわからないまま、なんの気力もわかず、ずっと、本棚の森をさまよっていた。

そして

結婚して、こどもが生まれたけど

いろんなところにいって

いろんな人に会って

いろんなことをしたけど

本当にしたいことはずっとわからなかった

少しずつ

自分や自分の感覚をだいじにして

生きている人たちと出会って

わたしは、すこしずつ 

自分の感覚をとりもどしはじめた

そして、本当にいろいろをへて

いま、ここにいる。

どうしていまここにいるんだったか

わすれそうなぐらい

いろいろあったけど

いや、まだおわってないけど

なにかのためとか、お金のためじゃなく

本当にただやりたいことがあって、

それだけで

ここに来たのを

思い出した。

砂漠にしみこむ水みたいに、

わたしの心にしみこんだ。

おじいちゃんはバレンタインの日になくなる前にわたしに

「死ぬまで勉強をするように」

と言い残した。

それが遺言だった。

それが、バレンタインに亡くなった

おじいちゃんがつけてくれた

わたしの名前。

おじいちゃん、お誕生日おめでとう。

おじいちゃんのおかげで

いまわたしはたぶんここにいる。

そして、たぶんわたしも未来の誰かのために

いまここにいる。

いつか出会うあなたのために。


いや。もう出会っているのか?

昔見たイタリアの映画「かぼちゃ大王」(元のタイトルは、わたしが愛した少女、だったかな?)でこんなセリフがあったような、、うろ覚えだけど。

精神科医と女の子が出てくるんだけど、精神科医が女の子に

「僕はかぼちゃ畑に座っていた頃から      君を捜していた」

と言うセリフがあったような。

スヌーピーに、ハロウィンに「かぼちゃ大王」っていうのが、かぼちゃ畑にきて願いをかなえてくれる話があるらしい


ずっと君を探してる

君に出会うために生きてる

だから、まだぜったいに死ねないよー!!

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