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ポンコツ

音声LIVE配信をよく聞いたりするのだが、人をいじる話や自虐ネタを聞いていて、なんだか辛くなったりした。

その程度が過剰で、自分でもわけがわからなかった。
学校や職場でのハラスメントなどだったら、大問題だが、そういうふうなわけでもない。
ちょっとしたふざけに対して、そんに過剰に感情が揺さぶられるのは困るし、それを避けて生きるというのも現実的ではない。

念のために言うが、いじめをやっている人の正当化というわけではなく、自分に向けられているわけでもない、本当にちょっとしたふざけの言葉に対して、体が反応している、という感じだった。

今朝シャワーを浴びるために、着替えをしていて、ふと思いだした。
病気が酷かった時、風呂に入る時に、着替えを準備することができなかったり、バスタオルさえ準備できなかったり、着替えた服と着替えていない服が、どうしても見分けがつかなかったり、そういうことがあったのだ。
風呂に入るたびに、あたふたすることしきり。

具合が悪い人が、風呂に入らなくなっていく理由がわかるような気がする。
実際風呂に入れているということも、正常だという要因にカウントされると思う。

慢性的に異常な頭の疲労があった。体の激烈な痛みを伴っていたので線維筋痛症および慢性疲労症候群とうつ病のセットみたいな感じだったんだと思う。

頭が回らないのだ。でも、これだけだと、何がどうなっているのか、相手に伝わらない。

そんなこともあるよ、と言われると思うし、実際言われた。
「それでも生きていかなきゃいけない」と、まあ、そうなのだが。

健康な人は、頭の中で「これからやる行動の工程表や地図みたいなもの」を、イメージできる。工程表やら地図なんていう、仰々しい言葉を使っているが、多くの人は、これが自動的にできるから、意識にも昇らない。

健康な人は、多少、うっかりさんがあっても、そんなに頻繁に、行動がしにくいほど支障が出たりはしない。

なんで、こんなに支障が出ているのか、自分でもわけがわからなかった。
だから、どうしてそうなるのか、随分、自分で分析した。
それで、何が問題なのかわかった。
これも、以前書いたことがあったが、電車の乗り換えができなかった時期がある。これは病院に行くことすらできないので大問題である。

乗り換えをまったく覚えていなくて、行き先や帰り道がわからなくなるのなら、認知症や精神障害の程度が酷いとして、通院介助などの援助が受けられるのかもしれない。

でも、行く先や帰り道がわからないとか、乗り換えを記憶ができないとかでもなく、注意力を維持できなかったのだ。

だから、注意が逸れると乗り過ごしてしまう。また、戻ろうとすると、また、乗り換えらなくて乗り過ぎてしまい、行きつけなくはないのだが、予約の時間を過ぎてしまう、咎められたりする。

お酒を飲み過ぎて電車で帰ろうとする人が、出会うような事態である。
これが、お酒を飲んでいない状態でも、起きていて、病院に通うのすら、きつかったが、私のアピール力が足りなかったせいか「大丈夫」ということになってしまった。

親と同居しているので「では親御さんに介助を」ということになってしまうのだが、自宅での生活全般を年老いた親に頼っているので、これ以上負担をかけられなかった。

自分で何とかするしかなくて、小さなノートに、どこかに行くたびに、毎回、その乗り換え駅のルートを手書きして、それをずっと見つめながら、電車に乗っていた。

小さなノートを使わなくても、電車に乗れたり、メモがあれば買いものができる(メモを作っても、注意が逸れると買い忘れることがあった)ようになったときは、本当に嬉しかった。

そう。
私は、本当に「しゃれにならないポンコツ」を実際に体験していたのだ。
だから「お前、ポンコツだなあ」とか「いやー。自分はポンだから、ミス多くてー」という会話を聞いていても、なんだか、凄く辛くなっていたのだと思う。

あまりに、辛い経験なので、それを忘れてしまっていて、この言葉や状況に、自分がなぜ過剰に反応しているのか、わけがわからなかった。

でも、そう。
何が、その過剰な反応、過剰な感情のゆさぶりを生むのか、仕組みがわかれば、聞いていられる。
それは比較的「無害な思い出」になったのだ。


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