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猫のたかは考えた「ハッピーエンド」について

まめ子は映画がすごく好きだ。特に、ハッピーエンドで終わる映画が、まめ子のお気に入りだ。今日、まめ子が見ていた映画が、なんとハッピーエンドじゃなく終わってしまった。

僕もまめ子の隣で一緒に見ていた映画だ。最後のシーンはこうだ。宇宙から悪い奴がやってきて、子供を殺そうとする。それを見た母親が子供を助けようとする。

そしたらなんと、宇宙から来た悪い奴が子供も母親も殺してしまった。

まめ子は、「それで?それで?どうなの?」と言っていた。

そしたら、なんと映画の終わりを告げるクレジットが流れ始めた。

まめ子は一気に態度を変えて、テレビの画面を切った。僕はまめ子の機嫌が豹変したから、びっくりした。

まめ子が言った。「2時間無駄だったわ。」

僕は、まめ子と一緒にずっと2時間見ていだけれども、いろんなシーンがあって面白かった。特に宇宙人とやらは、見たことがないから面白かった。

最後のシーンは、子供と母親が殺されてしまったけれど、それで終わったからって、僕は特に何も思わなかった。

もちろん、ただの映画だからとかそういう話ではなくて、僕は終わりがどういう風であるべきかみたいな期待がそもそも全くない。

でも、まめ子はハッピーエンドの映画が見たかったし、ハッピーエンドを期待していたらしい。

まめ子の夫が、「それなら最初に映画の内容を確認したら」と言った。

すると、まめ子は「そういう問題じゃない。」と言って、部屋に行ってしまった。

僕はハッピーエンドのことを考えた。ハッピーエンドというのは、幸せな終わり方というのが日本語の訳かな。英語は、時に混乱する。

自分の猫生を考えた時に、僕はハッピーエンドをしたいのかを考えてみた。そしたら、僕は、そもそもエンドについて考えたことが一度もなかったことに気づいた。

僕は今しか生きていない。僕は今日のことしか気にしないし、明日のことをあれこれ考えない。

そして僕は毎日すごく幸せだ。まめ子を愛しているし、まめ子の夫も愛してる。まめ子が僕のことを愛してくれていることも、まめ子の夫が僕を愛してくれていることも嬉しいけれど、僕自身が、まめ子とまめ子の夫を愛するとを決めているんだ。

僕の過去を振り返ってみると、僕は本当に毎日、幸せだった。まめ子の家に来る前に住んでいた家でも、僕は幸せだった。僕が保護施設に預けられた時も、僕は幸せだった。そしてまめ子の家に来ても、僕は幸せだ。

幸せという意味は、僕は僕の人生に満足しているという意味で言っている。

そして、僕はハッピーエンドのことを考えた。今の瞬間瞬間、僕は常に幸せだけど、もし僕が人生の最後は野良猫になって、そして食べ物を探して歩き回り、空腹でふらふらしてしまい、車にひかれて死んだと考えてみた。これはハッピーエンドだろうか。

まめ子に言わせれば当然、こんなのはハッピーエンドではないし、まめ子じゃなくても、他の人が聞いても、これはハッピーエンドじゃないという風に言うと思う。

そして、猫のことが好きだった人は、きっと僕の死に方を見て、かわいそうという風に思うかもしれない。

でももし誰かが僕の死に方を、ハッピーエンドじゃなくて、サッドエンドだという風に決めつけたら、多分、僕が車に轢かれた後、天国に向かう階段の途中で、多分たくさんのクエスチョンマークがあると思う。

なぜなら僕の一日一日それぞれは、瞬間瞬間ハッピーだったから。

僕が人生の最後、たまたま野良猫になって、そして食べ物を見つけるのにたまたま時間がかかって、よろよろ歩いている瞬間瞬間も、僕はハッピーだった。

最後に車に轢かれたというのは、僕の死に方が車に轢かれたという、ただそれだけであって、僕はその瞬間瞬間ハッピーだった。

それなのに、最後のあり方だけを見て、サッドエンドとするのはなんだか違う気がする。

もちろん人が僕のことをどう思うのかは自由だけど、でも100人の人が僕の死に方をサッドエンドだと言っても、僕はハッピーエンドだと思う。

僕にとって1日、1日はハッピーの連続だし、僕はハッピー連続のまま、この猫人生を終えていくから。


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