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猫のたかは考えた「ストレスがなくていいね」という言葉について

まめ子から、「たかはストレスがなくていいね。」と言われた。

僕は、自分自身の生活を思い返してみた時に、ストレスというものを感じたことがない。ストレスというのは一体どういう意味なんだろうか?

まめ子に聞いてみると、それは待つ時間だと言われた。仕事が終わらない時、自分の思い通りに事が進まない時。そういう、待つ時間はまめ子にとっては、ストレスらしい。

僕は、まめ子の夫がご飯を作っている時に、少し待つ時間がある。その間、僕はまめ子の夫をじっと見つめている。まめ子の夫が、スプーンでドライフードとウェットフードをかき混ぜているのを、ただずっと見ている。

見ている瞬間、食べ物の味が舌のあたりをジワジワと攻めてくる。その瞬間、僕は早く食べたいな、と思う。けれども、まめ子の夫が、僕の容器を指定の場所に置いてくれるまでは、僕はじっと待っている。

僕は「みゃあ」と言ってしまう時もある。別に、催促しているわけではない。ただ、ドライフードとウェットフードの香りが僕の脳を刺激し、そして僕の舌を刺激してくるとき、思わず出てしまう声だ。

人間で言うなら、「あぁ」みたいな声だ。感嘆詞っていうやつだ。僕の体を巡る、ムズムズとした感覚を何とか放出したい気持ちになって、そのムズムズとした感覚を「みゃあ」という言葉にのせて発している。発しているというよりも、本能的に出てくる言葉という風に言った方が正しい。

僕はご飯を待っている間、ストレスを感じているだろうか。まめ子が言うストレスというのは、こういうことを言ってるのだろうか。そう思って、まめ子に聞いてみたら、「それは違う」と言われた。

「じゃあ、どういう意味か?」と聞いてみると、「たかが待っている時間は、たかだか数分だから」と言われた。「たか、だか数分」という言葉は、僕は少しよく意味がわからなかった。でも分かったことは、まめ子にとってストレスというのは、数分ではない。もっと長い時間待つことを、意味するらしい。

僕は、「ストレスを感じている時は、どういう感覚か」と聞いた。まめ子はストレスを感じる時には、圧力を感じるらしい。両手両足をぐーっと伸ばして、自由に気ままに生きられるような、そんな感覚ではない。どこか体が少し硬直して、自由を失ってしまったような、そんな感覚を感じるらしい。そういうのをまめ子曰く、ストレスと呼んでるらしい。

だから、冒頭にまめ子が言った「たかは、ストレスがなくていいよね。」というのは、まめ子の目からしたら、僕はいつでもどこでも昼寝をしているし、いつでもどこでも両手両足をぐーっと伸ばして、自由気ままに生きている。そういう姿を見て、僕にはストレスがないという風に思ったらしい。

ここまではよくわかった。僕には確かに、ストレスはない。さっき話した、ドライフードとウェットフードを待ってる時の感覚は、確かに、まるでストレスじゃない。それはむしろわくわくするような快感だ。今か今かと食べ物がやって来るのを待つ。これはジェットコースターに乗ってる時に、ぐんぐん、ぐんぐん空へ向かって上がってる時の興奮に似ている。

とてつもなくわくわくしているんだ。そして、僕のご飯が、指定の場所に置かれた瞬間に、僕は勢いよく口をつける。その瞬間、ジェットコースターから、ザーっと下に向かって降りていく感覚だ。人々がキャーと言って両手を挙げるように、僕はその瞬間、最高に快感を感じるんだ。

だから僕がご飯を待ってる間は、全くストレスではない。ストレスどころか、むしろ至福な時間だ。

僕は、ご飯に口をつける瞬間よりも、ご飯が今か今かと待っている時の方が快感を感じる。つまり僕は待っている時というのは、ワクワクする時なんだ。

まめ子の言葉で、一つ気になることがある。それは「たかはストレスがなくていいよね。」という表現だ。「いい」という言葉が引っかかる。「いい」の反対は、「悪い」であるはずだ。つまり、ストレスがなくていいというのは、ストレスがあったら悪いと言っているのだろうか。

まめ子のストレスというのは窮屈な感覚、プレッシャー、圧力、そういう意味だと言ったけど、その感覚というものは本当に悪いものであるのだろうか。

僕がまめ子の言葉に対し、クエスチョンマークを示したので、まめ子はいつものように、「はいはい、たかは考えるのね」と言って、自分の部屋に行ってしまった。

窮屈な感覚、プレッシャー、圧力は、確かに心地いいものではないかもしれない。満員電車に乗らなきゃいけない時の感覚。それは決して、心地いいものではないかもしれない。でも、同時に悪いものであるのか?と言ったら、僕にはそれはわからない。

心地いいものでないものが、全て悪いものとは思えないんだ。心地いいものではなくても、いいものはある。満員電車の中にいるのは確かに心地いいものではないかもしれないけれど、電車によって歩かなくていい。自転車に乗らなくていい。立って、じっとしているだけで目的地に連れてってくれる。

それには、窮屈な感覚、圧力、プレッシャーを支払うだけの良いものが、得られているんじゃないだろうか。僕はそう思う。

ストレスを感じるかもしれないけど、ストレスを感じることによって、得られているメリットがあるはずだ。

僕は猫なので、毎日昼寝をして毎日手足を伸ばしている。そして僕はいつでもどこでも、僕のタイミングで寝ることができる。ストレスは全くない。

でも、僕は出かけることはできないんだ。僕は扉を開けることができない。僕は外の世界に自由に行くことはできない。

けれども、おかげで、僕は外の過酷な世界に巻き込まれなくて済むという大特権を得ている。つまり外に行って、車に轢かれる可能性はないし、外に行って食べ物を探さなくてはいけない可能性もない。

また、他の動物に攻撃されたり、いろんな寄生虫が体について、病気になるリスクもものすごく少ない。

だけど、僕はストレスが無いことによって、新しい世界を知るということはほとんどない。僕は常に、快適な家にいて、そこから一歩も出ないから。

つまり、僕はコンフォートゾーンにいる。僕は、今もこれからもずっとコンフォートゾーンにいる。それはすごく快適だ。でも、まめ子は知っているだろうか。僕の世界は広がっていないということを。

僕はいつも、自分の頭の中で物事を考えているだけ。まめ子のように、外からたくさんの刺激を得たり、新しい経験をするということはないんだ。

もちろん、僕が新しい経験をしたいわけでも、外からの刺激を得たいわけでもない。ただ、僕が思ったのは、ストレスが悪いものとは言い切れない、ただそれだけだ。

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