猫のたかは考えた「心配されること」について
僕は今日、キッチンの下にあるパントリーの中に入った。僕はパントリーがすごく好きだ。食べ物がいっぱいあって、そして迷路みたいなんだ。
食べ物と食べ物の間に少し通路があって、そこを通ったりしてみる。
僕がパントリーに入って、うろうろしていると、まめ子の夫が扉を閉めた。
もちろん、僕がパントリーの中にいるということはまめ子の夫はわかっている。僕はただ単にパントリーの中を散策したいだけなんだ。
僕はパントリーの扉を押してみた。僕の力で開くんだ。開けたり閉じたりしてみた。すごく音が鳴った。
扉は木材でできているから、木と木がぶつかる音だ。
パンパン音を鳴らした。
そんなことをやっていたら、まめ子が扉を開けた。そして僕を、外に出した。
僕はもっと中にいたかったけれども、でもまめ子は僕が出たいという風に思ったらしい。
僕が出たいと思ってるのに、まめ子の夫がパントリーの中に閉じ込めて、僕はかわいそうだと思ったらしい。
事実は全く違うのに。僕はかわいそうでも、何でもない。僕はただ単に、扉をパンパンするのが楽しかった。
それは出たいっていうサインじゃなかった。でも、まめ子には伝わらなかった。
僕はまめ子に1つ伝えたいことがある。それは何かと言うと、まめ子が思ってるより、僕は大丈夫だということなんだ。
まめ子は僕のことを心配しすぎることがあると思う。
例えば僕が外に出た時、僕はたまには太陽の光を存分に浴びてみたいんだ。単純にそれは気持ちいいから。
なのに、まめ子は熱中症にならないかって気にしている。だから、大丈夫だって。
まめ子よ。僕をもっと信頼してくれ。僕のことを心配しなくていい。僕のことより、まめ子がいつも心配するというところの方が、よっぽど心配だ。
僕の生きる能力をもっと信じてほしいし、僕の生存スキルにもっと頼ってほしい。
今はそんなことを思っている。
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