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我有辦法嗎?

※1.和訳:私は「どうにか」なりますか?
※2.お焚き上げ文です。多めに見ていただきたいです。

そういえばすっかり記憶が抜けてました。
個別指導塾に4ヶ月皆勤だった中1後半-中2終わり頃、毎週火曜日、木曜日、最初は理科、確か途中から数学も教えてくれていた先生がいて。オタ先生としましょう。

医学部生で典型的なオタクの方だったのですが、約2年間くらい、どん底の時期(つまり記憶がほぼない時期)に授業を受けていてですね。般教で忙しかったのか授業がない時も授業ブースで自習されていて、いつでも質問して良いよ〜と言ってくれてですね。

幼馴染も途中から同じ塾に通うようになり、週一コマ、一緒に受けていました。あともう一コマはめちゃ背が高い他校の先輩と一緒でした。自衛隊にスカウトされたらしいです、が、オタク気質だから?即断ったらしいです笑

彼らは生粋のオタクだったので、みんなでオタ話に花を咲かせていました笑
厨二恋とかあとなんだっけ。京アニ多め、、ああ夏休みは琵琶湖聖地巡りしてはったんや、、笑

音楽と同じくその授業、先生も救いでした。正直、当時私の世界は火曜日を中心に回ってました。
ストレスがかかるとボカロやアニソンを聴きがちになるのは中受ではなくこれが由来かもしれませんね。

比較的覚えているのが、二次関数を習った時、運悪く情緒不安定で怒鳴り散らす先生に当たってしまったんです。

萎縮して余計に頭が回らなくなって、2ヶ月間ずっと二次関数、、流石にノイローゼでもここまで酷いことは今までなかったです。

塾長に相談し、もう一人、高身長イケメン台湾人の先生とオタ先生に4、5コマ集中講義をしてもらうことになり。

そしたらなんと1週間で解決しました。もちろん怒鳴り声は他のブースにも届いていたので、オタ先生は「田中大先生(仮)の授業受けてみたいわw」と言っていました笑 当時の私はドン引きでした、、笑

そういえば高身長イケメン台湾人先生は信じられないくらい日本語がペラペラだったのですが、本当に留学生だったのでしょうか。と言うか何で私は留学生と思っているのでしょうか?

小学校の後輩(と言って良いのでしょうか?)にサラッと「覚えられない漢字は80回書けば覚えられるよ」と言っていたのを聞いて、尋常じゃない努力と才能を感じました、、謎です。

他にも、英語スパルタ先生はPIXUS(というテキストがあるのです。一貫校向きです。)20ページを毎週宿題に出してくれていました。それを個人的にあと2周解いていたので、毎週計60ページやっていました。

実は結構難しいテキストらしいんですがね、、調べたら公式サイト曰く国内最高水準らしいですよ。洛南の子達も苦戦していました。後継(?)のSiriusは高校の子達が見開き2ページに1時間かけている中、5分で終わらせていました、、

それだけ、勉強に逃げていたということです。

英語スパルタ先生は女性の先生で、もちろん仲が良かったです。なんか宿題多い印象にしてしまいましたが、、いつも笑顔で、私は特に女性不審だったのに何故か楽に話していました。

途中で1年間留学に行ってしまい、帰ったら絶対、また会おうね、と泣きそうになりながら約束してくれましたが、私が塾を辞めました、、会いに行けばよかった。

段々思い出してきました。サッカー好き先生、某繊維会社リタイア先生、法学部医学部先生、キリンの筆箱先生などなど、、

結局よく面倒を見てくれた塾長がパワハラ気質の塾長と交代し、私も他の集団塾(研伸館)にシフトし始めたことから授業を受けなくなっていったんですね、、と言うより理系の限界が見えただけなんでしょうが。

塾に入り浸っていた&先生方とよくおしゃべりしていたので、彼らの待遇が悪くなったことも知っていました。

普段から講師への「説教」だらけ、個別指導で時給850円て当時の感覚でも信じられなかったですね。祝日にいきなり強制的に呼び出されてセミナーなど、、時効なので言いますが。

ちなみに大学生になって、3ヶ月だけ他校の同じ個別指導会社でバイトしました。
時給は上がっていましたが、やはり塾長は、、本当に私がそう言うのを引き付けやすいだけなんでしょうか。

塾に残った幼馴染から聞いたところ、先生方はその後、ほぼ全員辞めて行ったとのこと。オタ先生もだった気がします。

今から考えれば学校のことや親のことなど一度も誰にも相談したことなかったです。なかったはずです。親に言うなと言われていたので。

言えばよかったんですよ、当時の私。察している人は察していましたよ、、
先代の塾長とオタ先生には一日ずつ、「大丈夫?」と聞かれた日がありました。「いつも通りです」と答えてしまい、それきり聞かれなくなりました。もしかしたらそれで変に気を遣わせてしまったのかもしれません。

塾長はともかく、オタ先生、そりゃフルタイム皆勤賞で塾に来て、まだ躁鬱も上手くコントロールできないんじゃ医学部生からしたらわかりやすいですね。

高校生になって、たまに鉢合わせることがありましたが、お互い声をかけることはなく。

こう言う人間なのでもちろんお名前だけ覚えており、お元気なのは知っているのですが。研究者や医者って名前を検索したらすぐ出るので。

今更また助けて欲しいです。救急らしいです。先生らしい選択だなあ、と勝手に思いました。

一度ぶっ倒れれば良いのでしょうか私は、、

そう。なんか、別の記事にも書きましたが、大学でも「先生」に救われているんですよね。亡くなられましたが、、

ただ、バイオリンの歴代の先生と言い、数名の担任と言い、大学の元指導教官と言い、毎度私を苦しめるのも「先生」で。

要するに、「先生」は「生徒」をどうとでもできる。救うことも落とすこともできるんだなあ、、とぼーっと考えたり。

どうとでもできるなら、どうにかして欲しいな。

追記
明日(今日)カウンセリングにかかるので。

日本では10年ほど誤診が続き、仕方ないので自分で騙し騙し何とかここまで来たのですが、

台湾短期留学中に症状が激化、精神科救急にかかり、即カウンセリング、診断書(主に躁鬱ですね。主に。)を得たのち、

日本に帰国せざるを得ず、また病院を探し、今に至る、と。つまり台湾では一度ほぼ倒れかけました。

診断書は国を跨げるものの、紹介状は跨げないようで。

会社の人の言葉を借りると、「なるほど。本来それぞれの国の中で医療は完結できるようになってるもんね。」です。

どうしても不安で。
私はとても「まとも」に見えるため、日本ではなかなか異常に気づいてもらえません。

今までもめちゃくちゃ心身がしんどい時に「大丈夫じゃん」と何度言われてきたことか。

高熱で声も出ない時にストーカーが酷くなり、センター試験に這いつくばって行ったものの、野次を飛ばされ生徒手帳を盗み見られそうになり、ついに泣きながら英語の試験を受け、2日目を受けられず、浪人もできないので国立を断念した時。

指導教官のパワハラが激化して手足の震えが止まらなくなり、休学、他大編入を目指すも心身を崩し断念、転ゼミを目指して診断書をもらうべくカウンセリングを受けた時。

年々頚椎症や気管支炎などの外科的な問題も自他に対して隠すようになっているみたいで、こちらも主に台湾の救急で発覚しました。沒有辦法だったよう。

一度狂ったら。
医者からの信用を得る代わりに、世間からの信頼を失う。
診断書は最も必要で最も邪魔なもの。

、、睡眠は最も必要で最も困難なもの。とりあえず、確実に悪夢を見ない薬が欲しいです。

追記(4月14日)
診断は統合失調感情障害でした。
お薬も台湾での救急に準じてほぼ変わらずいただけたので、今は少し安心して過ごせています。



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