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また会えたね

これまで書いてきたエッセイを、ふと読み返してみることがあります。

数十日前。数ヶ月前。数年前。
いろんな眠れない夜にたくさんの言葉を綴ってきました。始めた頃は、すぐに書けなくなってしまうのではないかと思っていましたが、いまは数ヶ月単位ながらもなかなかによく続いているものです。

生活の中で、日々の中で、自分で書いた言葉たちのことをどんどん忘れていきます。一緒にいたことは覚えているけれど、なにを話したのか覚えていない記憶みたいに。

ありがたいことに、エッセイをいつも読んでくれる人や、感想を伝えてくださる人もいて、そういう時には書いていてよかったと思います。すごく。

読み返していて思うのは、この文章たちはわたしのために書いていたのだということ。奥底の暗闇を吐き出して書いたものたちに、いまのわたしが救われることがよくあります。

SNSに書くことなんて大抵本音ではなくて、それはきっと誰かに見てもらうための表現で、分かってくれる人に届け!くらいに流す手紙で、上っ面みたいな文章ばかりで。

これまで書いていたエッセイを読み返すと、他の場所よりもすこし内側のことが日記みたいに残っていて、少しだけ自分に会えたような気持ちになります。

あの頃のわたしが「また会えたね」って、金木犀の香る道沿いや冬の光が差す場所から、こちらに手を振っている。風が吹いて懐かしい香りがする。

君に会うためにここまで来たんだよ。

泣きじゃくって生きたくないと言ったって、辛いと言ったって生活は続いてしまって、また前を向いて進まなきゃって。そうやって歩いてきたんだよ。

わたしは何故だか抱きしめられたような気持ちで、大人のふりをしていただけの子どもに戻って、くまのぬいぐるみを抱くようにハグをして。泣きながら笑う。

わたしはこれからだって、人に優しくできない人を見てストレスが溜まるし、つよい言葉を使えてしまう人を嫌っていくし、なにもうまくできない自分の首を絞めて苦しんでいく、そんな人間なのだけれど。

笑いたくもないのに笑って、傷ついているのに傷ついてないふりをして、言いたいことを飲み込んで、それでも「また会えたね」と言うために生きる。

SNSに書くことのできない、綺麗じゃないわたしのことを、わたしは愛していきたいと思うのです。自分の目で見つけた外側の世界のことも。

辛いことは絶えることなく消えては生まれていくから、嬉しいことはポケットの中にしまって増やしていこう。いつか荷物いっぱいのリュックになるまで。車に積むほどの荷物になるまで。

また会えたね。いつかの君に。

また会おうね。いつかの君へ。

この言葉を、親愛なる君へ。

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