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【短編小説】森に行く日

 目覚まし時計の音が最近の楽しみになっている。朝五時少し前。雪子さんと歩く時間。わたしだけの朝食、というのは気楽でいい。昨日炊いて冷凍しておいた半合のご飯を解凍し、卵をかけてしょうゆとコショウをかけ、ごま油を垂らす。そうしたらウォーキングウェアに着替えていつもの公園の前まで。
「なっちゃんもう来たのね、ちょっとだけわたし今日寝坊しちゃって」
 雪子さんが恥ずかしそうに白髪のショートヘアを揺らして笑う。小柄で、紺色のパーカーとぴったりとした紺色のボトムス、白いスニーカー。パーカーには差し色でオレンジが入っている。おばあさんになっても可愛らしいひとっているんだな、と半ば励まされる。
「いえいえ、雪子さんにはかないませんよ、今日もいつもの道ですね」
 雪子さんとは職業も過去も話さない。ご近所ということで一緒に歩いていつもの日常のことを報告しあう、それだけの仲なのに、いつしかかけがえのないひとになっていた。
 雪子さんと出会ったのは夫が亡くなってからだと思う。わたしは母も父も先立たれて、兄妹もいなかった。子どもだっていない。仕事も事務仕事をなんとかこなしているだけで、今はパソコンがあれば家で働ける時代になった。運動不足解消、と思って毎朝五時に歩く。その中でたまたま毎日一緒に歩いていたのが雪子さんだった。
「あら! あなた今日も?」
 と話しかけてくれたのが最初だった気がする。毎日毎日会う顔、と世間話から始まって、もう半年近くたったろうか。毎朝五時、いつもの森の公園前。それが当たり前の日常になっていった。天気の話、近くの犬や猫の話、最近読んで面白かった本の話。そして毎日のご飯やスーパーの込み具合の状況など、たった三十分の間にたくさんの話を笑いながらできたなあと思う。
「事務作業って、好きです。ひたすらデータと向かい合って、打ち込めばいいだけですし」
 そういえばある日、仕事に疲れていた前の日のことを思い出し雪子さんに言ってしまった。
「なっちゃんは真面目ねえ」
 と雪子さんは言う。もうわたしは四十過ぎなのに、菜津子と名乗ってから呼びやすい方がいいと雪子さんが言って「なっちゃん」にわたしはなった。本当は事務作業で、自宅で日々パソコンに向かいあっているのは、心の穴を埋める時間を単純作業で生み出したかっただけだ。わたしの夫のことも、両親のことも、みんな仕事を淡々とすれば忘れられる気がした。

「昨日はスーパーで葉物野菜がお買い得だったの。今日もセールしているからなっちゃんもどうかしら」
「いいですね、この時期葉物って高くなりがちですし。夕ご飯の買い出しの時でも見てみます」
 そんなたわいのない会話が、わたしの心の穴を静かにふさいでくれる気がした。雪子さんと歩いて、雪子さんは「じゃあここまで」と帰っていく。雪子さんの家の庭にはたくさんの樹が植えられ、植物を大切にするひとなんだろうなと思う。お手入れは雪子さんが担当なんだろうか。三角屋根の造りの良い家で、窓も日当たりがよさそうだった。なんだか日々をゆるやかに大切に生きているひとのような感じが伝わってくる。家に帰ってウォーキングウェアからオフィスカジュアルに着替え、ストレッチしてパソコンを開いた。コーヒーを大きめのピッチャーに淹れて少しずつ飲む。最近寒くなってきたのでいつもよりおいしく感じる。ここって政令指定都市なんだよなとぼうっと思うくらい、ここのあたりは緑や木々が豊富だ。今日は晴れているから、鳥の鳴き声も聞こえやすい。自然環境保護区だからだろう。夫も両親も失ったとしても、雪子さんと歩いているときは自分の過去も何もかも忘れて、「なっちゃん」になれる気がした。ここに緑が豊富なのは開墾地だからよ、といつか雪子さんは笑っていたように思う。読みかけの本を少し読み、八時半に今日の仕事の予定を確認した。うん、お昼休みにスーパーにいける、と思い、スケジュール帳に「スーパー、葉物、菜っ葉ときのこの炊き込みご飯」と書いた。明日もまた雪子さんと歩ける、と思うとモノクロだった毎日が急に彩られていく気がする。そのくらい、わたしにとって朝の雪子さんとのウォーキングは大切なものになっていった。うん、朝だ。今日もがんばろう、と独り言ちて、メールの返信や仕事へと自分の心のモードを切り替えた。メールで上司から仕事の依頼の文章が来ており、それを淡々と定時まで。出社していたころは後輩のミスにハラハラしたり、タイピングの音が大勢なっていてコピーを取る音がうるさかったオフィスが怖かったりしたけれど、今は仕事にそこまでの怖さは抱かない。むしろ、家で仕事をしていたほうが集中できるし、好きなものを好きに自炊できる良さがある。同僚というものはすぐ近くにはいないけれど、彼らと一緒にやっている企画はみんなのもので、わたしの仕事も一部分に入っているのだと思うと少し誇らしい。そういうこと、二十代や三十代は考えられなかったなあと思う。ただ自分がやっていることに意味があるのかと日々迷い、成果を早く求めすぎていた気がする。だからこそ仕事でミスをするし、焦らず何か困ったことがあれば同僚や上司に相談してみる。そういったことができずに、なんでも一人で抱え込もうとしていた。つらい日々だったけれど、なんとか乗り越えてきた。それだけわたしも若かったのだ。
 お昼休憩になり、スーパーに向かった。葉物野菜は確かに今日も十パーセント引き、底値のエリンギを買って、仕事をがんばっているしと思ってタイムセールの鮭を一切れ。帰ってきて簡単に刻み、冷蔵庫へ置いておく。午後五時ごろ炊飯すれば、定時にご飯が食べられる。そういうところが炊き込みご飯のいいところだ。午後、一つのミーティングを終えて経過報告をし、炊き込む。いい匂いが部屋に充満してくる。明日の朝はこのことを雪子さんに話そうと思った。定時にあがって、パソコンを閉じて炊き込みご飯を食べる。我ながらよくできたと思う。おいしい。パソコンに一日中向かっていると楽しみがご飯しかないが、わたしには毎朝のウォーキングがある。楽しみに早く眠りについた。

「菜っ葉とキノコと鮭の炊き込みご飯! わあ、豪華ねえ」
 と雪子さんは笑った。
「全部底値ですよ、料理しか趣味がないんです。仕事の後、手軽に食べられるものといったら炊き込みご飯しかなくて……平日はだいたいそういうレシピなんです。でも、ちゃんと野菜を取りたいと思っていたので葉物野菜の値引きは助かりました」
「なっちゃんのその毎日のお食事、うらやましいくらいだわ。そうやって小さな幸せってできるものなのよね」
 と雪子さんはうんうんと頷きながらそういう。今日は少しだけ曇り空、もうすぐ台風がやってくるとラジオで聞いた。雪子さんのことばの端々に感じる品の良さは、どこから来るのだろう。真っ白のショートヘアが風に揺れる。小じわは確かにあるけれど、たるんでいたり背筋が曲がったり、一般的なおばあちゃんよりももっと若々しくて、生き生きとしている。雪子さんみたいになりたい、と少し思う。
「ねえなっちゃん、明日はお仕事お休みかしら」
 雪子さんがあどけない顔で聞く。
「はい、今日は金曜日ですし、週末は特に予定も入ってないです」
 友達と会う機会も減ったなあと思う。わたしはインターネットのSNSをうまく使いこなせるほど器用ではないし、わたしの友達も会えば必ず旦那さんの愚痴だったり子育てのことだったり、わたしとは次元違いのような悩みを抱えていて、彼女たちと会うとなんだか心が窮屈になって苦しい思いがした。孤独、というのより、今の自分の暮らしに満足しきっているといったほうが正しいかもしれない。さみしくはあるけれど、夫も両親もずっとずっと前にいなくなり、そしてわたしは日々こうして小さな幸せを積み重ねている。だからこそ、わたしは日々幸福なのだと思う。さみしさを忘れるために、淡々と生きている。
「明日は森の広場に行かない? ちょっといつものお散歩より遠出してしまうけど……」
 雪子さんが言う。森の広場……雪子さんのお宅のもう少し先に環境保全緑地があって、森と自然の動物たちや鳥たちが地域で守られている場所がある。そこをわたしたち住人は森の広場と呼んでいる。
「いいですね、わたしもいつか雪子さんと行きたいと思っていました」
 わたしは笑顔でそういう。雪子さんはほっと胸をなでおろし、
「森の広場になっちゃんと行きたかったのよ。なんだか体によさそうでしょう? 週末くらい遠出したっていいわよね」
「はい、もちろんです」
 その日はそうして別れ、わたしはまた仕事へ戻った。

 土曜日、雪子さんとまた朝五時に集まった。
「今日は晴れていていいわねえ」
 と雪子さんがのびをしながら言う。少し朝陽が出てきたくらいで、森へ行くにはとてもいい気候だと思う。
「ほんとうに」
 とわたしも頷く。また、たわいもない会話をしながら歩いて行った。昨日の炊き込みご飯は週末疲れていたので塩昆布と魚だったこと、きんぴらを雪子さんは好きなこと。スカッと抜けるように藍い紺色の空に、まだ星が一つ二つ見える。朝日が昇ってくるのはあともう少しだ。二人して茂みをかき分け、少女に戻ったかのごとく歓声をあげながら森の広場へ来た。いい空気、とてもおいしいと思う。実はね、と雪子さんが口を開いた。
「わたし、ハンドメイド作家なの」
 あまりにびっくりして何も答えられなかった。
「アイデアが浮かぶまでずいぶん前はここに毎日のように来ていたわ。長く生きているとね、周りがどんどん寂しくなっていくけれど、森や植物はわたしを裏切らなかった。いつでもここにきていいって、わたしを許してくれる気がしたの」
 わたしは頷く。わたしの周りも、さみしいと思うことがたくさんあった。でも、雪子さんはそれをずっと、ずっと乗り越えてきたのかと思う。
「周りが寂しくなっても、一人でいることに何かしらの力を感じたの。それがわたしにとってはものづくりだったわ。だからもう寂しくない。もう会えなくなってしまった人もたくさんいるけどね、その向こう側にきっと、きっと何かあると思って、わたしは作家をやめなかったの」
 もう会えなくなってしまったひとたち。わたしは胸の中で反芻する。一人でいることの力。わたしにとって、それは料理だったり、仕事だったりするのだろう。ちょっと泣けてきてしまうけれど、わたしには雪子さんがいて、そして毎日の仕事がある。
「わたしも……たくさん、さみしいことがありました。色々と……でも」
 と言いかけた時、朝日が昇ってきた。あまりにも雪子さんのパーカーの差し色と似ていると思った。これからも歩んでいける。何かはわからないけれど、静かな勇気が出てきた。
「お話しくださって、ありがとうございました」
「なっちゃんとずっと歩いていたいわねえ」
 雪子さんは少し遠くを見ている。
「何を言っているんですか、また明日歩きましょうよ」
 二人で朝日を見ていた。しばらくたって、お互いの家に帰る。家につくと、ラジオから台風の情報が流れてきた。この辺りには明日くるらしい。少し嫌だなあと思いながらその日は過ごした。

 次の日、大雨と暴風の警報が出て、わたしは散歩に行けなかった。雪子さんのことを気にして、その日は過ごしてしまった。

「すごかったですね、台風」
 雪子さんは相変わらず楽し気に笑っていた。
「お庭の手入れが大変そうよ、でもなっちゃんと今日も歩けると勇気が湧いてくるわ」
 勇気。わたしから、雪子さんへ何か届けられたのだろうか。月曜日。またわたしたちは今日も歩いていく。電話番号もメールアドレスも知らない二人で。

おしまい。

久々に短編小説を書きました! いつもは詩や随筆ばかり書いているので、違う世界のものも書きたいと思い……家族のことを日々書いていますが、おいしいもののこと、「わたしたち」を書きたいと思って書きました。

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