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群衆嫌いの処世術

私は1人が好きだ。
何にもとらわれず、気にせず、没頭できる時間が好きだ。1人でいて「つまらない」という事がない。
むしろ、1人の時間が少ないと体調を崩しがちだ。
産休や病気療養を挟みつつ、それでも、数万人規模の組織で10年以上働いている。

私が就職先を選ぶ際に、自分にとって価値ある目的に到達できるかという視点も大切だったが、同じくらい、労働環境について法令遵守意識があるか、意識だけではなく果たしていそうかということを大切にした。
なぜなら、私の心身は弱いからだ。鬱病、自己炎症性疾患、喘息、PMS、アレルギー…。家族の人数より病気の方が多い。夫と娘は健康なのが救いだ。
強みの部分は、放っておいても勝手に突き抜けていくし社会で活かせるはずだ。一方、弱みは、意識的にケアしなければ生きていけなくなる日が来る。
私の父は、知性的で未来や世界を読む才能もあったが、労働環境に関する知識不足や環境整備に考えが及ばなかったため、人生の後半、つまり私と共に生きた時間は常に苦しみと共にあった。そんな姿を見てきた私は、同じ轍を踏むまいと、考え続けてきた。
あるべき姿として、全ての労働者に心身の不調を適切にケアしながら働く環境が確保されていてほしい。けれど、残念ながら、現実はそうはなっていない。

ひとりが好き、群衆が嫌い、心身虚弱、感覚過敏。
これらのワードから成り立つ「私」の処世術について、書き留めたい。

実は“術”というほど洗練されていない。特殊個体のサバイバル記の方が正確かもしれない…

労働環境

私の組織では、いくつかの建物に部門が分散されている。今の私の仕事場のある建物が一番大きく、そのためやたらと人間が多い。その大勢の人間に、さらに来客もあったりで、集中できない場所も多々ある。組織なので、しょうがない…。
「お前もその人間の1人だよ」とツッコミつつ、「この苦手は治らないんだ」と開き直りながら生活している。

組織運営という観点からは、採用・異動・昇進・退職等、組織の縦横の動きが活発なので、広く薄い人間関係が築けたり、当たり障りない人間関係を築こうとしなくても特に目立たない。
たまに、攻撃的であったり近づきたくない個体とも遭遇するが、しかたない。どこにでもいるのだ。ネズミや cockroach は人間社会に病気を運ぶ。防具や処理装置なしに、無闇に勝負してはいけない。

多くの人間が在籍しているので、個々に病気や人生の変化がある前提で組織運営がされていて、個々人の置かれた状況に一応の理解がある。体調不良にも理解があり、休みやすいから働き続けられる。これが一番重要かもしれない。
また、産業医のいる環境下では、所属部署は産業医の助言を蔑ろにはできない仕組みが成り立っていることにも助けられている。

この10年間で、敷地内は完全禁煙になり快適性が向上した。最初の頃は、盛大に文句も聞こえてきたが、所詮は同調圧力に弱い民族だ。次第に静かになった。

所属と職種

組織内には色々な部門がある。色々な職種の人間がいるが、私の属する職種は1%程度しかいない。幸いな事に、人数の少ない専門職種なので、普段の仕事場で日常的に顔を合わせる人間の数は少ないし、上下左右の人間も双方に気心も力量も知れているので非常にやりやすい。
今の職場は、電話が鳴らなければ、図書館くらい静かだ。
仕事の取組み方にもイチイチ文句を言われず、全体のゴール目掛けて自分の裁量で進められる環境である(にしてきた)ことも大きい。
個人としての自分には自信がないが、仕事の成果となると自信を持てる。不思議だ。いくつかの分野は周囲を凌駕する成果を発揮できるらしく、長期的な収支はプラスだと思ってもらえているそうだ。
周囲には感謝しかない。

人口密度

移動で使うエレベーターは、だいたい混雑していて、新人の頃は自分の立ち位置やボタン開閉のタイミング等、今思うとどうでもいいことでゴリゴリ気力をすり減らしていた。
今は、慣れてきたが、それでも昼休みのエレベーター・売店・食堂は近づかない。出勤退勤も時間をずらしている。この匙加減を間違うと、一気にむずがりセンサーが暴れ出す。
よって、基本的に自席(巣)から離れないし、薄暗くて人の少ない非常階段を使う。モグラみたいだ。

大きな会場で行われる会議や研修も、基本的に落ち着かない。よほど引き込まれる講演なら、参加する価値もありそうだが、今のところ残念会の方が多い。
傾聴型の研修や講演は、資料配布やURLだけでいい。
大人数の会議は、通常アリバイ対策だ。
仕事においては、時間と気力を使う割に、成果が伴わない行為が嫌いだ。
コロナ禍を経て、対外面を気にする組織の癖が開花して、ようやくオンライン開催が一般化されてきた。コロナ禍は失ったものが多いが、微々たるが得たものもあったようだ。

飲食…

親しい人達以外とは、食事をしない事にしている。
広く浅いつきあいのパーティーや飲み会文化は嫌いだ。知らない人がいると、食事をゆっくり堪能できないし、禁煙のお店が選ばれる事は、まずない。
煙を吸って、翌日は声が出なくなるし、そのまま吸入薬が必要になったりもする。
酒瓶を持って、席を回って挨拶する文化も嫌いだ。
各自手酌じゃだめか?さっさと帰りたい。
お開きになるまでの、微妙な待ち時間も居た堪れない。会場の予約終了時間、帰りの公共交通の時刻表が頭の中を占領している。いつも以上に、心ここに在らず。

新人の頃、2年位がむしゃらに頑張ってみた時期もある。けれど、最悪、一人で化粧室に駆け込んで吐いていた。なんとなく、とか、食わず嫌い、ではない。
本当に嫌いなのだから、もう嫌いでいい。

仕事の都合でどうしても飲食の場に出なければならない場面は、きっちり仕事として割り切れる。仕事だから。はっきり言って、どんなに上等なものが出ていても飲食物の味は覚えていないし、あまり食べない。吐いたら困る。
常に、観察、対応、判断、対処を繰り返しながら、味覚や胃の調子まで気にしていられない。
終了後にどっと疲れるので、翌朝は事前に休みをとっておく。仕方ない。

名前と顔

基本的に、浅い付き合いになることがわかっている場合、顔と名前は、意識して覚えないようにしている。
私の中で浅いとは、時間では数時間〜3年位のスパンで、たまたま同じ部屋に机を並べているとか、各案件でたまに顔を合わせるような人だ。
根本的に失礼な考えだが、接する人の名前や顔で態度や礼儀を変えるつもりはないので、対応は一貫している。と言い訳しておく…

子供の頃は、何でもかんでも、自分の頭の中で、画像や映像のように鮮明な記憶ができた。幼い頃の記憶は、今もたまに眺めている。その場面に出てきた文字も読めるし、スケッチもできる。
けれど、中学生以降は覚えていたくないことの方が多くなって、この覚え方は控えるように心がけている。負担が大きくて、しんどい。保存と削除を選別するのも面倒だ。

よって、今は「名札と席札」でそれとなくわかっているふうで過ごしている。
日本語のいいところは、ぼかす表現が豊富なところだ。主語や対象を明確にしなくても察する文化があるし、こちら、そちら、この件、ええと…、そうです、違います、とかなんとか言いつつ資料を使ったり、身振り手振りをしている間に、大抵の会話は終わっている。

来客等で頂いた名刺は、席順に並べてその場を乗り切り、後で日付と案件名をメモしている。
顔と名前に紐付けることなく、発言内容や意図は記憶できるので、仕事に差し支えは出ていない。
日付では、確実に様々な情報を手繰り寄せることができる。変な覚え方かもしれないが、私にとってはニュートラルで心地よい。
接客業や営業職ではなくてよかった。裏方万歳。

世間話

ここまで読んでいただければ、私は流暢な世間話ができるタイプではないことは明白だと思う。子供の頃から、世間話に価値を見出せない。

仕事中はデスクワークであれば、自発的に私語をしないし、調査や打合せでは問題なくピーチクパーチク喋っている。
会議開始までの待ち時間、車での移動時間、微妙な空き時間も仕事の関係だと思いつく話題も多少ある。

問題はそれ以外の時間だ。
親戚付き合い、町内会、PTA活動、井戸端会議、子供の友達の保護者…どれも私を殺しにくるワードだ。
むやみに人に踏み込まれる事を好まないので、相手に踏み込む事もしたくない。
知らない相手でも、年齢と服装と持ち物、あとは所作で、概ね驚異の有無や属性を判断できている。
この考えでは、社会的には冷たすぎると思われるようだが、私にとっての実害はまだ出ていない…。

私は積極的に自分の見聞きした話題を話したい欲求もないし、当たり障りのない共通の話題を持ち合わせていない。そして沈黙が気にならない。静かな方が心地良くもある。

猿山問題

精神世界底辺の公立中学校にいた頃は、周囲の生徒の言動で、常に頭痛や腹痛と闘っていた。
校舎の窓を割ったり、給食の配膳台に登ったり、机の上に土足で上がって跳んで移動したり。動物園の猿の方が大人しいと思っていた。
この頃は、生徒が野菜に見える魔法をかけて、教科書と黒板だけを見つめていた。

一応、編入して大学も出ているが、大学はガッカリするほど性に合わなかった。
現在働いている組織に採用され、同期と研修を受けた際も、同じ組織にいると思えないくらい、見ている景色が違うようだった。

どれも、猿の群れに放り込まれた気分だった。
猿は美しい動物だが、人間が猿山の群れに見える時は、大抵美しくない。

世界の縮図として薄目を開けて眺めたりもしたが、そこに居場所は見出せなかった。
ひたすら一人でいた方が、性に合っていたし、静かに幸せを感じる。

異物の共生

一般的な社会、例えば義務教育期間中の学校だとか、大人でも多様性だとか持続可能性という概念を真に理解できない人間の群れの中では、私は「仮病の異物」として、攻撃されて追い立てられる。
事実として私は心身の困難と対峙しているが、多数派の目には見えないため、嘘・妄想・狂言と見なされる。一部の医者だってそうだった。
今は自分の体質は、ごく少数(夫、産業医、直属の上層部)にしか打ち明けない。打ち明けられると感じた人達は、非常に尊い優しさを分けてくれた。

子供〜20代前半までは、世界と自分の距離感や正しさとの折り合いを掴みきれておらず、実際に攻撃も受けてきたし、大人なのに未熟なヤツだと貶されてきた。
書いていて少し残念な気持ちになってきたが、ありのままの私はこんな感じだ。

危機感から未来を想像する

これは、心身を滅ぼしかねない苦しみも生むが、これによって、進むべき道を見極めたり、進んではいけない方向を決めることができる。
私はこのエネルギーに苦しみながらも、突き動かされてきた。きっと、これからもそうだと思う。

私は頑固を頑固で包んで固めたような内面を持ち合わせている。自分で選んでそうなったのか、生まれついてしまったのか…。どちらにせよ、今の私がコントロールできるようなものではなくなっている。
それでも、私は一人では生きていけないし、一人なら生きていたくない。
だから、エゴを押し付けるのでも、誰かに縋るのでもなく、自力で立ち、資源を循環させながら、世界の中で居場所を見つけていたい。
30代に入って、今はできている気がするが、この先もできるだろうか?
わからないが、先の景色を見てみたい。

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