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見てるもの、見えてるもの『君と夏が、鉄塔の上』を読んで

 学生の頃の夏休みというものは見たものやったこと全てが特別なものだったなと、大人になってからしみじみと思うわけだが「君と夏が、鉄塔の上」も特別な夏休みの話である。

 あらすじとしては中学3年生の夏休みに鉄塔マニアという点以外は平凡な伊達、学校の屋上から自作の空飛ぶ自転車で飛び降りる破天荒な帆月、幽霊が見えると噂されている比奈山の三人は帆月が見たと言う「鉄塔の上の男の子」について謎解きに奔走する…といった感じだ。

 伊達の書いた読書感想文を読んだ事をきっかけに、帆月が鉄塔の上に男の子が見えると言いだしたわけだが…

 さて、普段私は何を見て過ごしていただろうか。

 「君と夏が、鉄塔の上」を読み終わって改めてそう考えるようになった。
 伊達の友人、木島の名言「忘れられた時、街は死ぬ」。この言葉を目にしたときに自分が忘れてきたもの達があることをふと思い出したのだ。
 普段は目的地しか見ていなかったように思う。その途中にあったものは目に入ってはいるが、見てはいなかった。
 それを証拠に気が付いた時には工事中になっていたり、目新しいお店が建っていたりしてそこに何があったか、いつからこうなったのかなどは特に覚えていないのだ。そう思うとなんだか勿体ない気がして、今まで以上に景色に注意を払って歩くようになった。
 小説の中でこの台詞に感化された帆月が行ったこともないような公園に行き、見上げたこともなかったような鉄塔を見上げたことが事の発端となっている。

 そしてもう一つの木島の名言「街は成長するんだ。生きている。そして、細かなところで死んでいる。」この台詞も私にとってタイムリーなものだった。
 ちょうど我が街は都市開発の最中で、青春時代から社会人として生きている今までお世話になった飲食店や書店、商業施設が軒並み閉店し、新しい建物がその上に産まれようとしている。そして日々着々大きく育っていっている。
 青春時代を送ってきたあの場所はなくなってしまうが、今まで以上の規模の新しい何かがそこに産まれようとしている。

 そして景色と同じように以前よりも気にするようになったのが「鉄塔」だ。いや、以前よりというのは少し間違っているかもしれない。何故なら以前は全く気にしてはいなかったのだから。気にしてみると思いの外近くに四角鉄塔が佇んでいたし、線路に沿って門型鉄塔もダダダダダッと並んでいた。しかも全部同じ物が置いてあると思っていたら微妙に形が違ったりしてなかなか個性があるものだった。こんなに近くにあるのに、ちゃんとした姿は見ようとしないと見えていないものなのだなと実感した。

 比奈山が「勝手に他人の気持ちを推し量ってその気になられても、本人からすればいい迷惑な場合もある」と言うシーンがあるが、これもちゃんと見て考えているのかということを今一度考えてみるべきではなかろうかと思うきっかけとなった。無論、何も考えず思ったことを羅列している人間はそうそういないとは思うのだが、近年は何かと気に食わぬ事があると怒りに任せて罵詈雑言で正義を振りかざし叩きに叩くような事例を見かけるが、一度落ち着いてよく考えてみればそのようなことをする事自体が愚かだと思うことが出来るのではないだろうか。そして先程までは影に隠れて見えていなかった何かが見えてくるのではないだろうか。

 この小説を読んでからより一層一度立ち止まって、落ち着いて、しっかりとよく見るということがいかに大切か実感することが多々あった。

 身近なものほど見えなくなるし、見ていない。そう気付けたのはこの小説のおかげであるし、鉄塔を見かける度にそれを思い出す事が出来る気がする。

 今日も近所にそびえ立つ鉄塔は、暑い日射しにも負けずに背筋を伸ばして立っている。いや、見えていないだけで暑さにダレているのかもしれないが。

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