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死花-第2話-①

…その頃は、初めて受けた司法試験に落ちたばかりで、焦りと、親からのプレッシャーに追われる日々で、正直……生きづらくて仕方なかった。

「わっ!」

「おっ?!」

書類の束で前が見えてなかった僕は、無様にも誰かとぶつかる。

弾みで書類が床に散乱し、僕は慌ててそれを拾う。

すると、ぶつかった相手が、その中の一枚を拾ってくれる。

「なんやこれ?論文?」

漸く慣れて来た関西弁が耳を撫でる。

見上げると、そこにいたのは、スポーツ刈りに日に焼けた肌、目元に黒子のある、男子学生…

「あ…あの、すみませんそれ…」

恐る恐る、手の中の書類を取ろうとすると、その学生は、屈託のない笑顔で、僕の頭を軽く叩く。

「なんや自分。気張り過ぎやでー?もうちょい気い抜いて行きやー」

「!」

ほなと言って、僕に書類を渡して颯爽と去っていく彼を見つめていると、横から別の学生がやってくる。

「余裕だよなー。司法試験合格者は。」

「南部(なんぶ)だろ?ウチの学部一の秀才で、京都地検の…」

そうそうと頷く学生。

どうやら、結構な有名人らしい…

勉強や不慣れな一人暮らしに齷齪して、キャンパスライフなんて二の次だったから、どこのだれがどんなやつかなんて分からない。

けど…

「次、大八木の刑法やろ?サボったろか。」

「阿保か。しばかれるでー」

友人らしき学生と戯れ合うその人から、僕は何故か…目が離せなくなっていた…

その頃からずっと、君は…僕の…


「んー」

けたたましく鳴り響くスマホのアラームに促され、真嗣は重い瞼を開く。

狭い六畳一間に、ぎゅうぎゅうに詰めた布団から身体を起こし、隣のベットで寝ている藤次の身体を揺する。

「とーじ!時間だよ!?起きなーー!!」

「んーー」

身体を捩らせ、起きることを拒絶する藤次に、真嗣は溜息をついてから、とっておきの一言を発する。

「絢音さん待ってるよー!行かなくて良いのー?」

その言葉は効果抜群で、藤次は勢いよくベットから起き上がる。

「し、真嗣!今、何時や?!」

「9時。ご飯は?」

「食べる!」

「じゃあ、パンでも焼いて、目玉焼きでいい?」

「おう!」

言って、2人は階下の居間へと向かう。

…この奇妙な同居生活も、早くて半年になる。

2月の雪の降る寒い日に、突然やって来た真嗣を、藤次は何の疑いもせず、家事をやることを条件に、この家に向かい入れた。

その時に、妻子と離婚したと聞かされたが、色々事情があるのだろうと、藤次は特に深く詮索しなかった。

「映画見終わったら、絢音さんちに泊まるの?」

「いや。飯食って家送ったら、帰るわ。そやし遅なるさかい、先寝とってええで?」

「あ……そう、なんだ…」

「…なんや?」

「ううん別に。じゃあ、ビールでも買っておくよ。退院のお祝い。」

「試験外泊や。退院はまだ先。せやけど…」

「ん?」

「せやけど、おおきにな。」

「……別に。友達じゃん?」

真嗣が、藤次に付き合って一年になる恋人がいると知ったのは、同居して間もなくの事だった。

「(笠原絢音って言うんやけど…)」

そう言って差し出されたスマホの待ち受けの中で微笑む彼女は、美人で優しそうで…幸せそうで、見てるこっちまで笑顔になる。そんな2人が離れ離れになったのは、冬の終わりのある日だった。

季節の変わり目だから体調でも悪いのかと聞いた際、真嗣は絢音が統合失調症と言う病に侵されている事を知る。

「(まあ、1、2ヶ月したら退院できるやろうて、先生言うてはったわ。我慢や我慢!)」

そう言って無理に笑顔を作っていた藤次。

そんな2人が、3ヶ月ぶりに自由な外の世界で再会するのだから、てっきり…

「送って帰る……か。」

藤次にしては淡白な発言だったなと思いつつ、真嗣も深く詮索せずに、笑顔で出かける彼を見送った。

人気のない玄関でポツリとそう呟くと、真嗣はエプロンの紐を結び直して、洗濯に取り掛かろうとした時だった。

不意に、ポケットに入れていたスマホが鳴る。

忘れ物でもしたのかなと画面を見ると、そこに浮かんでいたのは「嘉代子さん」の文字。

その文字にやや戸惑いながらも、真嗣は通話ボタンを押し、スマホを耳に当てる。

「えっと…なにか、用?」

その言葉に、受話器の向こうから盛大なため息が聞こえる。

「用がないと、かけちゃいけないの?」

「そういうわけじゃないけど…」

はははと空笑いすると、受話器の向こうから、またもため息が聞こえる。

「明日、加奈子のピアノの発表会があるんだけど、来れる?」

「明日?!き、急だなぁ〜」

「なによ?予定でもあるの?」

「ないけど……僕、行っていいの?気まずくない?」

その問いに、受話器の向こうの相手は三度ため息をつく。

「加奈子が会いたいって言ってるんだから、仕方ないでしょ?離婚は私達の問題であって、あなたは、あの子にとっては父親なんだし…」

その言葉に、真嗣は僅かに顔を曇らせる。

「うん。そうだね。分かった。行くよ。何時にどこに行けば良いの?」

そうして暫くやり取りをしたのち、真嗣はスマホの通話ボタンを切る。

「父親…か。」

スマホの待ち受け画面に浮かぶ在りし日の家族写真を見つめながら、真嗣は小さく苦笑し、脱衣場にある洗濯機へと向かった。







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