拙訳 夜船閑話 2

鵠林師匠(白隠禅師)が行脚をやめて鵠林山松蔭寺(静岡県沼津市)の住職になられてからおおよそ四十年、以来所化(行脚する修行僧)が少しでもこの境内に立ち入れば彼らは師(白隠禅師)の厳しい言葉をありがたく感じ、警策(座禅に於いて肩を打つ時に用いる棒)の痛みすらその滋いとし、ある者は十年、またある者は二十年とこの寺に居着き去ることを忘れる者が少なくない。尤も、鵠林師匠の下で一生を終える事こそ満更ではないといった感じである。

その様な者らは叢林(禅僧が集まって学ぶ場)に於いて秀才として頭角を現すのであった。その各々が五、六里程離れて古く廃屋の様な建物やうち捨てられた寺院を借りて住処とし日々苦学し研鑽に励んでいる。

朝から晩まで苦行修行に明け暮れ、食べ物はふすま(麦の屑)の様な物ばかり、聞こえてくるのは師匠からの熱烈な叱責、その後は骨にまで届く様な様な警策の痛さ、とそれは見る者が額に皺を寄せぞっと冷や汗を流す程のものである。これには流石の鬼神や悪魔も彼らを憐れんで涙を流す事だろう。

所化らが初めてこの寺に来た時には、宋玉や何晏の様な美貌でその肌艶はとても健康的であったが、たちまちにそれこそ杜甫や賈島、屈子の様に身体は瘦せ細り甚だやつれてしまうのであった。
※ 宋玉、何晏、杜甫、賈島、屈子
全て中国の歴史上の人物であり、前二人は健康的で美貌を備えた人の、残り三人は痩せ衰えて苦しんだ人の例と解する。

所化(修行僧)らこそ、命懸けで参禅(修行の意)する様な勇猛心に溢れる者を除いて何の楽しみがあってこの修行を続けることができるのだろうか。故にこの様な勇猛心に溢れる者が必然的に増えていった。彼らは往々にして苦行の度が過ぎ、正しい修養から外れてしまうので肺を痛める者、脱水状態が続きお腹を痛める者など心身に重篤な異常を来す者ばかりであった。師はこの状況をとても憐れみ憂いて、連日とてもご心配くださり、その状況に心を痛められた。

故に師は内観(瞑想の意)の秘訣を伝授くださった。その伝授こそ雲を撫でるかの如くの、老婆の出なくなった乳を無理やりに絞る様な、即ち行うにとても難しい、言葉に顕すことがとても難しい微妙(みみょう)たる奥義をお伝えくださるのであった。

続く。

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