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病気と宗教

こんにちは、猫ねっこです。

病気と宗教、信仰とも言えましょうが、これは往々にして関係の深いものであると私は思います。

治病に関する術式や祈り、そういったものはどの様な宗教にも、無論古代に於いては医術にもみられます。目指すところが病を良くする事であると、その観点から鑑みれば現代の医療とその目的は同じですね。精神医学に於いてはその適用範囲を精神的な側面に限る事が多い様ですが。

尤も目的は同じでもその手段は大いに異なります。宗教的なアプローチであればあらかた経験則的な、若しくは催眠や繰り返しの要素の強い呪術的な試みが殆どでしょう(催眠と宗教の関係はまた別の機会に私見を述べさせていただきますね)。

宗教は医学を否定、もしくは超越すると、その様な考えを私の周りではたまに伺いますが、私はその様に相容れないものでは無いと思います。むしろ善き同志であると。
宗教的なアプローチは時間がかかりますし、理解よりも実践、実践からの主観的な理解を重んじる様です。仏教の面から言えば、お釈迦様は「無記」と言ってその理由を説かれない(踏み込んで申し上げればそれは人間に理解できる言葉で表現できないものであると、私はそう考えます)立場を取られる事もありました。その様な、理解や論理よりもまず教義を経験してみてそこから来る直感が理解させてくれるという側面を大切にしている様に感じます。

学問にあたっては理解や論理が先にきますし、自分自身の理解に重きを置くと、その様に私は感じます。即ち学問に於いて何かを信ずるという事はあまり無いでしょう。

私共は人間です、少なくとも何かを信仰するという経験がなければ、行動の前にまずは理解したくなる、自分の頭で以て理解したくなりますし頭で理解できる理論にこそ何か惹かれるところがあるのでは無いでしょうか。仮にあなたがそうでなくても周りの方、即ち現代を生きる方にはその様な考えをお持ちの方が多いのではないでしょうか。

私は、如何なる病気であっても現代社会に於いては先ず現代医学に任せるべきで、そこでの治癒や改善の中に、ともすると改悪の中にも神仏からの深いご慈悲と救いがあるのだと感謝する、それが信心のある者の姿だと信じます。

また宗教に於いて未練とはあまり良いものでは無いと思います。雑念という事にもなります。ここはやはり時代の精神として現代医学を重んずる社会でありますから、まずはできる限り現代医学を、そして現代の医学では全く太刀打ちできないそういった疾患や苦しみこそ宗教の不可思議な奇跡が担うところのものであると、そう私は感じます。

隣人愛、即ち現代の精神や価値観へ深い敬意を向ける事こそ信仰を持つ者の義務なのでしょうね。


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