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利他と自己

こんにちは、猫ねっこです。

往々にして宗教では利他、他の人の為に、そう言った事が善い事であると言われます。それこそ清貧であったりと。これは無論道徳的に善い、そう言ったことと完全に重なりますし、そうでなくてはいけないでしょう。

私は利他への心の動きこそ素晴らしいものだと思います。しかし、それを考える時、社会的自己を意識しているかどうかという事で精神状態に大きな差が生まれます。即ち、第三者的に見てあなたが他の人のために何かをしていてもその考えがあなたの意識に上がってはいけないのです。畢竟善い事をしている自己に酔ってしまってはそれは大変な苦しみを産むことでしょう。
主客が溶け合った、そんな状態の心こそ目指すものであると思います。

時に宗教的教義がその時代の道徳に反することもあります。戦時下においては国の為に尽くす事が道徳的に善でありますが、宗教に於いてやはり殺生は殺生なのではないでしょうか。江戸時代以前の仇討ちなどの陋習も然りです。
尤も道徳は数十年もすれば180度変化する事こそ多くあると思います。

その道徳は二元論的な考え方です。即ち、他人と自己を分ける考え方、善と悪を相剋させる考え方ですね。その二元論にも限界があり抑の善を定義しなければ悪は存在できないでしょう。

さて、仏教に於いて目指すは一元です。即ち、自分を想うように他人にそのまま心を向ける、その時には無論相手の価値観でこそ心を砕くのです。そこに社会的自己の存在はありません。相手を、即ち神仏を祈る心のみです。ここには道徳的善悪という概念も無ければ、その行いが利他か利己かという概念すらありません。そう言ったものは単なる雑念でしかないでしょう。

宗教的教義の中に道徳の要素が多く含まれ、その戒律に反映されているという事はそれが信仰の階梯としてこそ相応しいからでしょう。しかしそればかりに執われて雑念や執念になってしまっては元も子もありません。

その戒律を修めてゆく段階でその髄を、即ち本旨を掴んでいかねばならないと思います。
また、その破戒という点で自己を責める事はあっても他を責めては意味がありませんね。戒律は遵守したいと考える本人へ授けられるものでこそあります。
破戒とはその破った本人に苦しさを与える行為です。しかし、何を以て苦しさと感じるかは個性です。自分のそれを他人に押し付ける事はいけませんし、その主観的な苦しさをいかに減らすかというところに宗教の目的の一つがあるのです。

利他にばかり要点を置く宗教こそ多いですが、その主客を溶け合わせてこそ、即ち心を全て神仏に捧げてこそ祈りが深まると私は信じます。

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