2022年12月公開新作映画感想まとめ(1月9日追記)

ブラックアダム

 中東の小国カーンダックを舞台に、5000年の封印から目覚めたダークヒーロー・ブラックアダムと、カーンダックを根城にするインターギャングとの、世界を滅ぼす力を持つ王冠をめぐる戦いを描いた作品。


 正直、ヒーロー映画として真新しい部分は特に見当たらない。様々な特殊能力を持ったキャラクターが多数登場するものの、映像表現としてはどれも大体ここで10年でMCUがやってきたものと似通っていて既視感があり、取り立ててこの作品独自のテーマ性もない。ただ、それにも関わらず、鑑賞後には異様に爽快感が残る作品となっている。その要因は、主人公のブラックアダムのキャラクターの魅力にほかならない。


 雷撃攻撃+高速移動+飛行能力持ちで単純なステゴロも強く、銃弾が何百発あたっても傷一つつかないというオーバースペックな強さ。邪魔するものは誰であろうと躊躇なく殺すという行動理念の分かりやすさ。それでいて、古代人ならではのカルチャーギャップに起因するコミカルさも見せ、かつ、正義のヒーローたちとは馬が合わなくとも、子供のためには体を張れるというヒーロー的なカッコよさも有している。この盛れる属性を盛れるだけ盛ったようなキャラクターのおかげで、ブラックアダムが敵を相手に大立ち回りを見せるシーンはもれなくとにかくスカッとして心地よい。それでいて、必要最小限のピンポイントな作劇で、ダークヒーローとしてのブラックアダムをヒーローとしてのブラックアダムに、作中で納得感を持って成長させることに成功しており、クライマックスの作劇はなかなかに卒がなく良くできている。


 このような属性欲張りセットなキャラクターを、きちんと実写で成立させるのは本来なかなかに無茶というものである。でも大丈夫。これを演じているのは、誰あろうドウェイン・ジョンソンなのだ。この属性欲張りセットのブラックアダムをドウェイン・ジョンソンが文字通り力技で納得させにかかってくる。とにかく尋常じゃなく強いタフなブラックアダムも、正義のヒーローに悪態をつくオラついたブラックアダムも、アモン少年に異様に従順なキュートなブラックアダムも、ドウェイン・ジョンソンがやると1人のキャラクターとしてなぜかすごくしっくりくる。ロック様の人間力を120%有効活用したヒーロー映画『ブラックアダム』、さらっと見れてスカッと爽快な作品となっている。


あのこと

 1960年代のフランス、大学生のアンヌは自身が妊娠していることを知る。当時のフランスでは中絶が違法だったため、妊娠した以上は出産しなければならないが、それは将来を諦めることを意味していた。アンヌは自身の人生のために、なんとか中絶しようと試みる。


 本作の主人公は予期せぬ妊娠が発覚する女子学生・アンヌ。現代であってもかなり苦しい状況だが、舞台となっている1960年代のフランスは中絶が違法であったため、おいそれとは人に相談できないというさらに困難な状況にアンヌは置かれることとなる。自身の大学での勉強と将来のキャリアのために、彼女は産婦人科医やごく少数の友人に相談するも、なにせ違法であるため、ほとんどまともに取り合ってもらえない。さらには、女性が学問に励むということ自体にあまり理解が得られていない時代背景のため、なんとなく皆、諦めてシングルマザーになるよう勧めてくるのである。八方塞がりで誰も理解者がいない中で、アンヌが産婦人科医からこっそり処方してもらった薬剤を自分で注射したり、自室で金属棒を体内に差し込んだりするのだが、その様は痛々しくて目を背けたくなるほどだ。作中で女子学生によっても若干言及されるが、本作に対して、そもそも夜遊びしてSEXするからこうなったのだから自業自得だという見方もあるだろうし、それはある程度正論であろうと思われる。ただ、これも作中でアンヌによって直接的に言及されるが、本作で訴えたいのは予期せぬ妊娠に対する男女の負担の非対称性であろうと思われる。アンヌを妊娠させた男子大学生は当事者にも関わらず、作品のかなり終盤になるまで画面に登場することもないし、本人も当事者意識が著しく薄く、かつ、アンヌも彼へ初っ端から全然期待していない。それ以外にも作中で出てくる他の男性も皆が皆、性行為への認識が軽く描かれていて、「男は気楽でいいですね」と言われているようで、男性としてはなかなか真っ当に居心地が悪い。


 本作はほぼアンヌ1人で物語が進むような構成になっており、これが妊娠を誰にも相談できない彼女の孤独感とマッチしており、彼女の焦燥感を追体験できるようになっている。各種演出もこの空気づくりを的確にサポートしている。例えば、本作ではBGMをほとんど使用せず、ほぼ自然音のみで作品が進むため、かなり乾いた空気感の作品となっているが、この演出がアンヌの焦りを良く反映していて、作品への没入感を高めてくれる。また、作中では彼女が妊娠何週目なのかがかなり細かくキャプションで表示されるのだが、これもタイムリミットへのカウントダウンのようで息が詰まるような演出だ。また、アンヌはもとは非常に優秀な学生であったのが、妊娠発覚以降は学業が手につかず、頭の中が中絶のことでいっぱいで転がり落ちていくように成績を落としていく。本作では全体的にアンヌに寄ったカメラワークが多用されているが、これが徐々に周囲のことが見えなくなっていくアンヌの心情とリンクしており、孤立して頭が回らなくなっていくアンヌの胸のざわめきを良く表現している。


MEN 同じ顔の男たち

 ロンドンに住む女性・ハーパーは口論の末、夫が目の前で転落死するのを目撃し心に傷を負う。そんな傷心を癒すために、ハーパーは田舎町のカントリーハウスにやってくるが、そこは男ばかりの異様な町だった。森に潜む謎の男に付け回され、ハーパーは精神的に徐々に追い詰められていく。


 ロリー・キニアがカントリーハウスの管理人、牧師、警官など本編に登場するほとんどの男性キャラを一人で演じているのが本作の特徴。邦題にある「同じ顔の男たち」という文句もここに起因しているのだが、それぞれのキャラの個性が強すぎるため、しばらく観ていないとそのことに気付くのは難しい。ロリー・キニア、かなりの怪演である。その中でも特にセンセーショナルなのが、森に潜む謎の全裸の男。序盤から終盤近くまでのかなりの時間の直接的な脅威は彼なのだが、彼の存在により、本作はハーパーがいつ襲われるか分からない、もっと言えば、いつ殺されるか分からないといった恐怖に満ち満ちている。そのため、ハーパーが屋外に出ているシーンはもれなく強い緊張感に包まれているのだが、徐々にその狂気が家の中にまで侵食してくるため、だんだんと逃げ場のない恐怖が画面を支配していく。自分は男性なので正確に捉えられているかは分からないが、この恐怖は男性にいつ加害されるか分からないという多くの女性が日常的に抱えている恐怖の延長線上にあるもののように思われる。ある種、男性にとっては女性から見た世界の追体験をさせてくれる映画になっているのかもしれない。


 直接的な脅威が森の全裸男だとすると、町の男性たちは間接的にハーパーを脅かしていく。森の男を一度は捕まえるもすぐに釈放してしまう警官に、夫の自殺はハーパーのせいではないかと説く牧師、かまってやらないと罵声を浴びせだす子供。こういった具合に、町の男性たちは皆女性蔑視の見本市となっている。「女は男に従え」、「女は男を無条件に愛し受け入れろ」、「SEXさせろ」、「子供を産め」といった独善的な言い分を入れ代わり立ち代わり、町の男性たちはハーパーに投げつけていく。彼らのこういった行動の積み重ねにより、よりハーパーが身の危険を強く感じるようになっていくため、だんだんと真綿で首を絞められるような緊迫感を味わうこととなる。


 本作は「この話はどこに帰着していくのだろう?」という困惑も伴いながら、分かりやすく観客を驚かせるようなホラー描写抜きに、丹念な不快感の積み重ねにより、男性に加害される恐怖を存分に表現している。ところが一転して、クライマックスではモンスター映画顔負けのとんでもない事態へと発展していく。本作のPRでも「衝撃のラスト20分」と言及されているが、確かに生理的な嫌悪感を引き起こすという意味ではなかなか類を見ないレベルの映像が展開される。が、正直なところ、このラストに関しては個人的にはぶっ飛びすぎていて付いていけなかったというのが正直なところ。そもそもが本作は聖書やギリシャ神話などの様々な西洋文化からモチーフやメタファーが持ち込まれた作品であるため、初見で理解するのは難しい要素が多いのだが、ラストについてはそういったレベルの話でもない。なんとか無理やり解釈すると、「お前たち女が男よりも優れているのは子供が産めることだろう。どうだ、俺達は今それを成し得た。お前達女を超越してやったのだ。ざまあみろ」という怪物側からの当てつけなのではないかと思われるが、それはそれで「なんなんだそれは…….」としか言いようがない。ハーパーも最終的には恐怖から呆れに心情が変容していたので、この理解でいいのかもしれないが。


 作品内の緊張感のコントロールが巧みで、触れそびれていたが音による恐怖感の増長も実に優れている本作。シュールギャグと紙一重の非常に恐ろしいホラー描写に、とにかく生理的嫌悪感を引き起こすグロ描写と、非常に多くの要素を内包した本作。エクストリームな映像表現により著しく非日常な世界が描かれながらも、本作の恐怖の根底にあるのは日常に存在する男性の加害性である。男性の立場から言わせてもらうなら、自身の加害性について、今一度省みる良い機会となる作品だと言える。


アバター:ウェイ・オブ・ウォーター

 元海兵隊員のジェイクは惑星パンドラに住む先住生物ナヴィへと転生し、そこで家族をもうける。しばしの平和な生活が続くも、一度は退けた地球人たちが再度パンドラへと来訪する。ジェイク一家を執拗に追う地球人たちから逃れるため、ジェイクら家族は住み慣れた森を離れ、海へと生活拠点を移し、海の部族メトケイナと生活を共にするようになる。しかし、地球人たちもその矛先を海へと向け始める。


 前作『アバター』から13年ぶりの続編となる本作だが、その物語構造は前作と非常に酷似している。おおまかに言うと、前半は惑星パンドラに住む知的生命体ナヴィの文化風俗とナヴィを取り巻く自然環境の紹介、そして、後半はナヴィ対人間の戦争映画という二段構えの構造だ。あげく主人公も敵も前作と一緒となると、非常に既視感の強い作品となってしまいそうなところ。しかし、本作では前作の巨木が生い茂る森から、美しい大海原へと舞台を大きく移すことでこれを回避している。物語を追うというよりは、雄大な自然の情景を3D映像で体感するという点が本シリーズ最大のウリであることから、このビジュアル面での大きな転換は作品全体の印象を大きく変えるものとなっている。


 前述の通り、前作も本作も全体が2つのパートに分かれているが、後半の人類とナヴィとの戦争パートは、いわゆるハリウッド謹製ブロックバスター映画の文法に忠実に則ったものであることから、これといった独自性はない。アバターをアバターたらしめているのは、派手なこの後半パートではなく、一見地味な前半の文化風俗+自然環境紹介パートの方なのである。架空の世界を舞台にするSFである以上、その舞台の説明描写を挟むのは当然のことなのだが、アバターの場合はこの説明パートが異様に長く、そして、異常に作り込まれている。さながら、『NHKスペシャル』と『ダーウィンが来た』を足し合わせたようなスタンスで展開されるこの説明パート。前作では惑星外から来た主人公が惑星パンドラを学んでいくというていで観客に設定が提示されたが、本作では主人公一家が森の部族から海の部族へと移ったために新たに海での掟を学ばなければならなくなるという展開にすることによって、観客に設定を提示している。前作と比べて本作では、この説明パートがジェイク一家の子供たちそれぞれのキャラクターの掘り下げにつながっていたり、終盤への布石になっていたりと、このパートにより物語上での意味が積極的に持たされてはいるものの、それにしても長大であることには変わりない。3D映像で展開される海の世界や、前作からよりリアル方向へ舵が切られたパンドラの海洋生物たちはどれも美しく見応えがあるが、一方で、止めどなく提示される架空の惑星の設定に対し、興味が持てない人には前半パートはただただ退屈なものであろうと思われる。私はこういったファンタジー世界の深堀りは好きなタイプの人間なので楽しく鑑賞したが、人を選ぶ作風だ。


 前作は人間である主人公がアバターの技術を使って、身体的な差異を一足飛びに越えてナヴィたちの英雄となっていく姿に欺瞞的なものを感じたが、本作では主人公がすっかり身も心もナヴィへと転生しているため、あまりノイズなく物語を楽しむことができる。ジェイク一人を追い詰めるために、なぜ人類側がこんなに資材を投下しているのかであるとか、メトケイナの戦士たちが最終決戦で急に存在感が感じられなくなるであるとか、明確にツッコミたい物語上のポイントは多々あるものの、人類側の暴虐によって溜まりに溜まったフラストレーションが一気に解消されるクライマックスはありきたりだが爽快感がある。そういった意味では後半パートも悪くないと思われる。


 圧倒的な映像美で架空の惑星パンドラを描く本シリーズ。上映時間の長さも相まって、この鑑賞体験は惑星パンドラを”学ぶ”と表現するのが一番感覚的には近い。今のところ、パート5までの制作が決定されているとのことだが、これまでの作風からすると、さらにこの上に詳細な惑星パンドラの設定を何層も積み上げていくのではないかと想像される。ここまで来たら、どこまで行くのか見届けたいところだ。


仮面ライダーギーツxリバイス MOVIEバトルロワイヤル

 現在放送中の『仮面ライダーギーツ』と今年8月に最終回を迎えた『仮面ライダーリバイス』のクロスオーバー作品。構成としては『リバイス』の後日談→『ギーツ』の特別編という二段構成になっており、『ギーツ』編に『リバイス』のキャラクターもそのまま登場する。このような形になっているのは『ギーツ』側の設定に世界改変や記憶改竄などの融通の効きやすい要素が多く内包されているためであろうと思われる。


 『リバイス』編では、劇場版オリジナルの怪人であるバリデロとイザンギの討伐と、TVシリーズ最終回で消滅してしまった主人公・五十嵐一輝の相棒の悪魔・バイスの復活劇が描かれる。この2つの要素については、どちらもあまりうまく消化されていない印象を受ける。まず、敵怪人については特にTVシリーズとの関わりもないぽっと出のキャラクターであるうえに、それほどストーリー性を担った敵でもないので、こちらが思い入れを持つ前にやられてしまうといった感じ。また、バイスの復活については、TVシリーズラストの肝であったバイスの消滅という展開をひっくり返すに足るほどの説得力が脚本になく、ただ「奇跡が起きました」程度の理由づけしかなされていない点が引っかかる。このあたりについては、後の『ギーツ』編でこの復活が一時的なものであることが提示されるのである程度はフォローはされるものの、「とりあえず死んだキャラが復活して他のキャラとわちゃわちゃしているとエモいでしょ?」という意図が透けて見えて、あまり良い印象はない。


 続いての『ギーツ』編。『リバイス』編の最後で敵に奪われた一輝の末弟・幸四郎の悪魔を巡って、『リバイス』のライダーたちと『ギーツ』のライダーたちの争奪戦が繰り広げられる。仮面ライダーのクロスオーバー作品の場合、それぞれの作品のライダーたちが戦い合うという展開は定番で、かつ、その展開への導入がひどく強引というのも定番なのだが、本作はここの話運びがうまい。今回の場合、幸四郎の悪魔を持って逃げている『ギーツ』サイドのキャラたちの心象が悪くなりかねない展開なのだが、本作では『ギーツ』TVシリーズの設定を踏まえて、『ギーツ』サイドのライダーたちは『リバイス』サイドのライダーたちを怪人だと認識しているように描いているため、どちらの心象も悪くせずに存分に両陣営のライダーたちを戦わせることに成功している。最終的には共通の敵に対して、両陣営のライダーたちが共闘するのだが、ここに至るまでの両陣営のライダーバトルが本作の一番面白い部分で、ジャンヌとナーゴの女性ライダー同士の商店街での追いかけっ子、バッファとバイスの電車内での戦い、リバイとギーツの車両運搬車上での戦いと三者三様に掛け合い、戦闘演出などクロスオーバーの面白さが凝縮されている。『ギーツ』編のストーリー自体は細々とピンとこない部分はあるものの大きな破綻はないので特に不満はない。


 さて、本作は『ギーツ』、『リバイス』に加え、2002年放送の『仮面ライダー龍騎』のキャラクターも参戦するという点が大きなウリとなっている。現在の令和仮面ライダーシリーズと比べて、作風がかなりハードな平成仮面ライダーシリーズ初期作『龍騎』からのキャラクター参戦ということで、キャラ崩壊が起きないだろうかと危惧していたが、これについては悪くない仕上がりになっている。序盤こそ、龍騎名言botのごとき活躍に徹している『龍騎』ライダーの面々であるが、終盤でそれぞれのライダーが原作を踏襲した動きを見せてくれるため、原作ファンへのファンサービスとしては見たいものが見れた感がある。少しでも原作と擦り合わせてみると色々と辻褄の合わない部分が出てくるものの、大先輩ライダーのカッコいい客演として見れば、非情に美味しい役どころが割り当てられているので、これはこれで良いかなと寛容に見れる仕上がりだ。


かがみの孤城

 不登校の中学生・こころはある日、自室の鏡に吸い込まれ、絶海の孤城へやってきてしまう。城へ入ると、そこには自分と同じようにこの孤城に引き込まれた6人の中学生たちがいた。こころたちをこの城に引っ張り込んだ張本人である狼の仮面を被った少女は、この城に隠された鍵を見つけた者には、どんな願いでも叶えてやると7人に告げる。


 クラスメイトからの嫌がらせで不登校になってしまった主人公のこころが、似た境遇を持つ6人の子供たちと1年を過ごすことによって再生していく姿を描く作品。非常にファンタジー性の強い作品でありながら、子供たち同士のなにげない交流をメインに据えて描いている点が興味深い。しかも、クライマックスを除いては、何か分かりやすい衝突であったり、事件であったりが起こるような作劇はなされない。むしろ、7人が仲良くなっていく過程を直接的には描かず、彼ら彼女らの関係性のゆっくりとした変化から観客に描かれていない部分を想像させるような作りになっている。本作は、不登校であったり、生きづらさを感じたりしている子供たちが、共になにげない穏やかな時間を過ごすことで、一歩前に踏み出す勇気を得る姿を描く作品となっている。そのため、ドラマチックなイベントはあえて抑えて、この「描かないことで描く」作風に徹していると思われる。テーマに対して誠実なアプローチだ。


 この作品の特異な点は、孤城という異世界が舞台でありながら、子供たちは自分たちの世界に好きなタイミングで帰れるうえ、行きたくなければ行かなくてもよいし、むしろ、1日の終りには自分の世界へ帰らなければならないと設定されている点。この設定のおかげで、物語が現実世界から大きく乖離せずに進行するのだが、これが本作においては重要なポイントである。というのも、主人公であるこころの本作での課題は大きく2つで、1つは孤城に隠された鍵の探索とその処遇の決定、もう1つは不登校からの学校復帰なのだが、本作においては後者の方が重要度が高いのである。そして、これだけファンタジー性の強い作品でありながら、孤城での体験は後押しにこそなれ、実質的な学校復帰の原動力となるのは親の理解とフリースクールの支援なのである。ここが個人的に本作で最も感心した点であり、本作ではファンタジーを導入にしつつも、学校や日常生活で問題を抱えている子供たちに必要なのは、周りの人たちの理解と適切な支援であるという当たり前であるが、非情に重要なメッセージを送っているのだ。また、学校復帰だけが道ではないことも逐次作中で示しており、当事者からすると、もしかすると甘っちょろいのかもしれないが、メッセージの送り方も細部に気が行き届いた誠実なものであると感じた。


 教育的なテーマ性の強い作品ながら、ミステリー的なギミックも面白く、エンターテインメント性も強い本作。仕掛けられた物語的なカラクリは中盤あたりでなんとなく察せられるものの、個人的には一点作中で明かされるまで全く気付かなかったギミックがあり、このギミックによって鑑賞後の感動が増した。終盤で回想シーンが使われすぎている点や、作中で提示される鍵を使って願いを叶えると、孤城での記憶が失われてしまうという設定が他のギミックとの兼ね合いであまりうまく機能していない点など、ブラッシュアップがもう一歩だった点がないわけではないものの、全体としては心が動かされる良い脚本だったように思う。優しく誠実な語り口で胸が暖まる良作だ。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,900件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?