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仕事とスポークンワーズ③(イベントMC)

※この記事は前回の内容「仕事とスポークンワーズ②(声優専門学校)」の続きです。

フリーター時代と転機

声優専門学校の後のキャリアは、幼児教育(小学校受験)の世界で1年くらい講師をして、そのままなんとなくフリーターになりました。フリーターとしての勤務先は、ベネッセ系列のコールセンターTMJ(テレマーケティングジャパン)。毎日喋りのスキルを使える上、同僚にミュージシャン・ナレーター・俳優が多く、楽しかった記憶があります(休憩室の掲示物で髪の毛がオレンジ色の管理者が表彰されていて、よく見たら朗読詩人の先輩 青木研治さんだったw)。当時すでに演劇を辞めてスポークンワーズに移行していたので、渋谷のDJ BAR「SAZANAMI」でほぼ毎月平日夜に主催イベントをやっていました。そういったライフスタイルにフリーターは合っていたと思います。しかし、ビジネスでも刺激的な手応えが欲しいと思ってはいて、フラフラ彷徨いながら何かを探していました。

そんな折 、演劇時代に付き合いのあった日芸系のコメディ劇団「カリフォルニアバカンス」(現在は解散)の俳優で友人の大口達也くんが仕事を振ってくれました。劇団員の親戚が経営する広告代理店のイベントスタッフの仕事で、軽い好奇心からそれを引き受けたことがキャリアの転機になりました。

イベントMCになる(2010年〜)

単発のアルバイトとしてイベントスタッフを始めたわけですが、広告業界は全くの未知。これまでは専門学校の広報として代理店にパンフレットやwebページ制作を依頼する立場だったので、逆の立場になりました。仕事内容は大手飲料メーカーのCSR活動。全国の小学校に出張して環境授業を行うというものでした。学校の授業時間をお借りして「水・森林の大切さ」「ペットボトルのリサイクルの大切さ」「工場で炭酸飲料を作る過程」などを紹介します。販促も兼ねて最後にサイダーをプレゼントすると、子どもたちは狂喜し、こちらも笑顔になれる仕事でした。

このイベント仕事、内容が小学校4年の社会科のカリキュラムに紐づいており、しかもMC(講師)は「飲料メーカーの工場からやってきたお兄さん」という芝居をする必要がありました(実際に工場の制服を着て登場する)。つまり、小4の社会の授業と演劇ができなければならない。半分イベントで半分教育。最初はアシスタントスタッフとして入職しましたが、適任だったのですぐMCを任せてもらえるようになり、翌年には社員に昇格しました。こうして、社員として広告代理店で月給もらいながらイベントMCをすることになったのです。世にも稀なケース!

MC=ポップアイコン

イベントMCの仕事は、クライアントと消費者の間に入って、クライアントが伝えたいことをわかりやすく体現する必要がありました。相手は小学生なのでポップアイコンにならねばなりません。例えば、泥水を濾過して綺麗にする実験を行う際は、子どもと一緒になって驚く(芝居をする)。Eテレのキャラクターになった気分で演じました。内容は社会科なので、教科知識はブレないようにする必要もあり、気を配るところが複数ある。人前で喋る時に消費者にしか向き合ってこなかったこれまでと、スポークンワーズのスキルは確実に広がったと思います。

ステージに立って喋る時、複数のことを意識して喋る。その気を遣う先の種類と数が増えれば増えるほどMC稼業は難易度を増し、メイクマネーできます。特に震災後の東北巡業では、クライアント企業の副課長クラスが必ずついてきたので(監視役ではなく自社のCSR事業を視察するため)この事業にお金を使う意義を感じてもらえるように気持ちを込めてプレーしました。

飲料メーカーが保有している水源保護林で間伐を視察するなど全国各地に出張した


ツアーの意義

今でも住んでいる街を離れて遠方にライブをしに行くのはワクワクします。やっていることはいつも通りであっても、遠く離れた街の初見のオーディエンスから見たらそれは大変な事件で、ましてや小学生にとってはその後も記憶に残る出来事になるかもしれません。

環境授業のCSR活動は、企業のイメージアップも目的の一つでしたが、全国をくまなく回ったことでガチで社会貢献になっていました。例えば、東北の山間部の小学校では生徒数が極めて少なく、(近くに工場もなく、バス貸切も割高なため)社会科見学に行けないのだそうです。そういった学校にも行きましたし、鳥インフルエンザの流行で県外に出られない宮崎県の小学校を訪ねた時は熱烈な歓迎を受けました。子どもの教育には時にイベント要素と外部からの刺激が必要だと思いました。

また、前述の震災直後(2011年7月〜9月)に行われた東北巡業では、除染の跡と津波被害の跡が子ども達の日常と隣り合わせであり、外部からイベントMCがやってきて行う授業は、一種の「発散の場」として機能していました。当時、俺の東京の自宅は震度5強でインフラも無事だったため、部屋が散らかったことを除けば無傷。ほぼ無傷の人間だからこそやれることもあるのだと思いました。高台にある小学校は被災地でも普通に毎日授業があったので。

そんなわけで、中学受験塾や声優専門学校では慣れ親しんだホーム(校舎内)で喋っていましたが、イベントMCの職歴が加わったことで「クライアントの意向を汲んで」「全国に出張して」喋るという経験がプラスされたのでした。

除去した表層土が校庭に古墳のように盛られていた福島の小学校(2011年)
水浸しになった気仙沼市街(2011年)
元気な垂れ幕がかかっていた気仙沼の小学校(2011年)
帰り際に低学年のクラスが歌う「野に咲く花のように」が聴こえてきた。
校庭は全部仮設住宅だった。


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