人魚屋敷の脳先生 (第16話/全26話)
16
僕は山門をくぐり、カシャカシャと玉砂利を踏みつけて、お寺の境内へと入っていった。
黄色い菊の花を持った母はずいぶん先へと進んでいて、慌てて後についていく。 本堂の裏手に進むと、一面に墓地が広がっている。
右手には、沼だか池だかわからない大きな水溜りがあって、蓮の花が綺麗に咲いていた。
その沼に面した一番本堂に近い場所に、黒い御影石でできた墓がある。祖父の墓だ。 僕は去年よりずいぶん背がのびたので、墓のてっぺんを見ることができた。 鳥の白い糞が異様に目立つ。
早く綺麗にしてあげないと。
そんな事を考えていたら、ふと視線を感じた。
ふりむくと、そこには白い蝶がゆらゆらと頼りなげに飛んでいた。
アゲハ蝶位の大きさだ。
あんな大きくて白い蝶は初めて見た。
もしかして新種だろうか?
**
虫にはそれほど興味はなかったけれど、新種かもしれないと思うと妙に欲しくなった。 蝶はふらふらと墓地の奥へ奥へと飛んでいく。
捕虫網を持っていなかったというのもあるけれど、僕はその蝶をなかなか捕まえる事ができなかった。
蝶は草むらや、墓の影に隠れて、消えたかと思えばまた現れて……というのを繰り返した。
気がつくと、ずいぶん墓地の奥深くまで来ていた。周りの墓は、古くて崩れかけていたり、苔に埋もれていたりしていて、ずいぶん長い間、誰もお参りに来ていない事がわかった。
何だか急に体が重くなる。
蝶も疲れたのか、地面にとまり、肩で息を吸うように大きな羽を開閉させた。
僕も地面に片ひざをつき、体勢を低くして大縄跳びの時みたいに、タイミングを見計らった。
羽が何度目かに閉じた瞬間。
今だ!
さっとのばした右手の指先が、柔らかな羽を摘んだ。
やった! 捕まえたぞ!
──ほぅ。
──捕まえてしまったか。
ぎくりとして顔を上げると、小柄な老婆がほんの数歩先に立っていた。
小さな顔に対して目も口も異様に大きい。
だけれど鼻はほとんど無いと言っていいほど小さい。
白く濁った両の眼は左右で違う方を向き、ぴくぴく痙攣していたので、到底見えているとは思えなかった。
野良着の様な服装だが、生地はずいぶん色褪せ、ゴワゴワしていて妙に生臭い。
その上あちこちシミでまだら模様になっているので、元の色がさっぱりわからない。
袖も丈も短く、大小の穴が空き、糸もほつれていた。
そんなボロ布から生えた手足は、木乃伊のような水気の無い皮膚で覆われ、頭、ひじ、ひざ、指、それぞれの骨の形がはっきりわかってしまう程に痩せている。
山姥。
そんな言葉が浮かんで、みるみる怖くなった。
老婆はゆらゆらと左右に揺れながら僕の方に近づいてきた。
──殺生はいけない。
──特に、蝶はいけない。
──蝶は昔から『夢虫』というのだ。
──殺してしまったら、
──誰かが夢から覚めなくなってしまうよ。
──さあ。
──放しておやり。
嫌な声だ。気持ちが悪い。耳元で蚊が飛んでいるような嫌な気持ちになる声だった。 老婆はいつの間にか僕の目の前まで来ていて、やはりゆらゆら左右に揺れていた。 ふいに揺れがぴたりとまったかと思うと、にいっと笑った。
そして干からびた両腕を、蝶を掴んでいる僕の右手にのばしてきた。
本当は僕を捕まえようとしているのか?
捕まえられたら僕はどうなるんだろう? 昔話に出てくる山姥は人間を……。
「う、うわああ!」
僕は叫んで、逃げた。
後ろは振り返れなかった。
***
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