僕、『第一阿房列車』を買い損ね、本を買うことの難儀さを猫又に愚痴る。
鬱蒼とした木立が行く手を黄泉の如く思わせる急な石段を降っていくと、そこが猫又堂である。否、この忘却に蝕まれ今にも朽ちそうな社の名前はもう誰も知らないだろう。ただそこに僕が懇意にする猫又が一匹、今日も居るのである。(「端書 猫又堂にて」)
僕は激怒した。必ず、かの軽妙洒脱と名高い『阿房列車(あほうれっしゃ)』を手に入れねばならぬと決意して来たものの、ないのである。
僕は激怒した。必ず、かの軽妙洒脱と名高い『阿房列車(あほうれっしゃ)』を手に入れねばならぬと決意して来たものの、ないのである。
ことの発端は五日前に戻る。ふらりと立ち寄った小洒落た本屋で『第一阿房列車』を目にしたのである。その時はなんとも思わず、「嗚呼、内田百閒(うちだひゃっけん)か」などと呟いて教養人ぶりを振りまいておこうとしたのだが、口を開いた瞬間に生来の肝の小ささが祟って「嗚呼、内田…」と知人を偲ぶかの如くなってしまったのはいささか悔やまれるところである。さて、数日後に腐れ大学生たちの創造神こと森見登美彦先生の随筆を読んでいれば吃驚仰天、内田百閒が出てくるではないか!登美彦先生曰く、麗しの乙女と下鴨の古本まつりに行って一部の巻が抜けた内田百閒の全集を手にほくほく帰ったらしい。また何やら迷走すると内田百閒先生に立ち返るらしいのである。
これは必ず手に入れねばならぬ、数日前に偶然本屋で見かけ、それが登美彦先生の愛読書だというのならこれは運命以外の何者だというのか。僕には既に数日前の平積みされた『第一阿房列車』と僕の指に幾重にも巻かれた赤い糸が見えていた。頭の中にはヴェートーヴェンの「運命」が猛り狂って鳴っている。いざ本屋へ!
しかし不幸なことに僕は諸々の用事に阻まれ本屋に行く機会を2日ほど逃していた。そしてやっとのことで焦がれる胸を抑えつつ、当該本屋に辿り着いたわけである。
僕「で、僕が目にしたのは、テーマが変わった特集棚だったわけだ」
猫「御愁傷様だ」
(特集棚:あるテーマを特集して売り出す棚、定期的に内容が変わる)
直行型書店と徘徊型書店
僕と猫又の間では話が通じているが、本屋とは数年前に縁を切って今はYouTubeやTikTokと懇ろ(ねんごろ)だという諸君もおろう。説明しよう。本屋と言っても様々な種類が世の中には存在する。一棟丸々本屋という大型書店や、ちんまりした可愛らしい個人が運営する書店まで。扱う本も網羅的だったり、音楽関連の書籍に限る!など分類していけばジャンルは今年儚く散った恋の数より多いであろう(勿論、真偽は知らぬ)。
各書店がその差異を大切にしているだろうが、東西南北に頭を下げつつ大雑把に分ければとある2種類に分けることができる。直行型書店と徘徊型書店である。
直行型書店はジャンル別・文庫別に本棚が分かれており、検索能力が低くても欲しい本を見つけやすい本屋である。その最たる例は三省堂神保町本店や紀伊國屋書店新宿本店などの大型書店である。行けば大抵欲しい本はあるし、検索機器を使わなくてもどの階のどこら辺に愛しの相手がいるかは分かるのである。阿呆にも優しい設計。嗚呼優等生哉。
一方で徘徊型書店はジャンル分けに力を入れた本屋と言えよう。文庫新書ハードカバーなど全てが一緒に分別されている場合が多く、ジャンルの分け方も「素敵なtea timeを」だとか「愛って大事」のように、時にはこそばゆいようなジャンル名がついていたりして、僕は不覚にもオロオロしたりするのである。失敬、それはどうでもいい。とにかくざっくりとしたジャンルの中に大小様々な宝石が詰め込まれていて、客はその本棚の間を徘徊しながら未知の本との遭遇を企むのである。
一応言っておけば、上級本屋探検家ともなれば直行型書店すら徘徊型書店へと変わる。棚を舐めるように見れば未知がいないわけがないのだ。本は砂の数ほどあるのだから!ゆえに僕の付けた分類名は「直行容易型書店」とすべきかもしれぬ。
だが上級本屋探検家をしても、徘徊型書店を直行型書店に変えるのは至難の業である。徘徊型書店、彼らにとって直行してもらうことは眼中にないのである。
「『推しは推せるうちに推せ』、『先んじて課金』」
「そんな無責任な」
僕「当該本屋は徘徊型書店で、しかも『第一阿房列車』は特集棚にあった。それが来てみたら特集棚の内容が変わってしまっている。前の特集棚にあった本がどこへ行ったかはもう徘徊型書店では分からない。1時間も徘徊してやったものの僕には見つけられなかった。買われたのかもしらん。盗まれた気分だ」
猫「オタクの名言にこのようなものがある。『推しは推せるうちに推せ』、『先んじて課金』。本との出会いは一期一会だから目があった時点で買えば良かろうに」
僕「そんな無責任な。僕がアラブの石油王か『どうだ明るくなったろう』と言って紙幣を燃やせる日本史の君だったらとっくにそうしている。それができないから毎度毎度本屋で拷問のような自問自答をして苦渋の決断を下しているのだ。狭い部屋、家族の白い目、積み上がって崩れる本の痛み具合。中には本は積み上げてなんぼという奴もいるが僕に言わせればそれは読書家であれど愛書家ではない。詰んだ物体は物理法則からして崩れるのだ!本の痛む声が聞こえないのかと!」
猫「しかし我が友、本というのは何時が読み時か分からぬというのが特徴ではないか。君だってちょっと勢いで買って何時読むんだと思った森見登美彦氏の『太陽と乙女』、半年ぶりに手に取って大層気に入っていたではないか。本あれば憂いなしとはよく言ったもので、腐りも朽ちもしない本というのは備蓄に最適である。痛みが気になるなら箱に入れて積めばいいのだ。それは宗派の問題ぞ」
僕「勿論その『何時か読むんだから絶対に損にはならない』精神は一介の書を愛する者である以上、胸に刻んでいないわけではない。しかし場所と金は有限、増える本、狭まる部屋、緩む財布。しかも一度あまりに緩めた財布の紐というのは戻らず、何なら気づかぬうちに落としてしまうと聞く。そうなれば僕の手元には本は貯まるが金が貯まらないという、将来が不安な状態に——」
猫「我が友よ、それは流石に自己管理が甘いだけであろう」
猫又が馬鹿にした声で茶を啜る。今日はFORTNUM & MASONのロイヤルブレンド、ミルクティーである。
猫「大体私が思うに、君のその膨らんだ自己意識からしてどうせ『読みもしないくせに本棚で満足するような人間とは同類になるものか!』などと思っているのではないか」
僕「…」
猫「そう思う気持ちもわからんではない。現代は確かに爆発的に情報が増えたが情報が多すぎると愚痴を流しているのは現代人だけではない。『情報爆発——初期近代ヨーロッパの情報管理術』によれば古代も中世も皆情報過多だ手に負えないと嘆いていたそうな、人間は思ったより無能なのだな。」
僕「猫又に比べればどの動物だってそうじゃないか」
猫「で、結局情報管理の基本は『蓄えること(storing)、分類すること(sorting)、選択すること(selecting)、要約すること(summarizing)』で、『文書管理の4つのS』とか言うらしい。つまり蓄えねば始まらないとも言える」
僕「わかったわかった、降参しよう。確かに備蓄は大切だ。しかしお金に悩むのは本当だよ。本は大事だが僕は凡人だから旅行や遊びだって大事だ。恥ずかしながら何時かは親孝行やハネムゥンに行きたい。好きに本を買っていたら僕は裸一貫何もできぬことになってしまう」
猫「うぅむ…」
木陰が暗さを増してきた。そろそろ友人に帰れと嗜められる時刻である。
猫「恐らく世のアマチュア読書家たちは全員もれなく同じ悩みを持っているのではないかな。本の世界は無限だが我々は有限である。金・場所をクリアしても時間が大きな砦である。死ぬまでに読みたい本は読みきれないのだ。その矮小さを自覚して本の前で呻吟する時間すら、その本を迎え入れる時を良くするのだろう。何度も迷ってやっと買った本、開いたらやっぱり面白かった、あんだけ待っても買ってよかった、と。すぐに買えば満足感はすぐに満たされて、本との絆は真には育たないのかも知れない。そういやすぐに買った本ほど積んで忘れられがちな気もしてくる。消費するか、友達になるかの違いのような、そんな淡さを大切にすればいいさ…まぁ、そろそろお帰りよ、人ならざるものの時間になってしまう」
僕はありがとう、また来ると声をかけ、いつも通り友人を撫で…られず、虚空を切った片手を何事もなかったかのように振り、帰途についた。
家の手前、本屋というブラックホールにふらりと吸い込まれ、ふと棚を見れば『きみの言い訳は最高の芸術』。
そうかそうか、今日までここで僕をずーっと待っていたのだねと囁いて表紙の笑顔を撫でながらレジに直行する。隣のおばさまが一歩引いていたが仕方あるまい。僕とこの子の絆誕生の瞬間に立ち会えたのだからむしろ、感謝してほしいくらいである。
ほくほく。
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