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読書メモ:斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA)

注目ポイントメモ

ウーバーイーツで配達してみた 自由と、自己責任と

なかなか社会はいい方向に変わらないと、私たちは嘆きがちだからだ。でも現場を訪れてみると、いろいろな可能性があることがわかる。(中略)「ないものねだりより、あるもの探し」

p.5

本書を書く経緯での一文。
非常に共感。「シラケつつ、ノる」ことの重要性を『フェミニズムってなんですか』でも痛感した。すぐに社会を変えることはできなくとも、変えていかなくていいわけではない。


「気に食わないなら、去れ。自転車で配達できる労働者はいくらでもいる」と言われているような気分だ。

p.28

ゆえに、ウーバーの配達員の立場は弱くなってしまう。
最近考えていたことと合致。去れと言われて簡単に去れるのであれば、問題はないのだ。問題のある待遇をする組織は淘汰されるはずだから。しかし、そうではない現実につけ込んでいるのが現状ではないだろうか?


どうなのテレワーク 見直せ、大切な「無駄」

ブルシットジョブの典型がコンサルや広告業(大意)

コンサルに行く身であるが、コンサルが社会でどれくらい重要かというと、正直自分自身納得できていない気もしてしまう。成熟した社会の+α的職業ではないか、と思ってしまうこともある。女性の権利拡大のために戦ったり、過疎化して困っている高齢者を助けるために奔走している人たちの方が、よっぽど高給を与えられるべきではないかと。


DXを推し進めた先にある「ポスト資本主義」の未来に待っているのは、1%の持つ者と99%の持たざる者が決定的に分断される社会、「デジタル封建制」である。

p.27

デジタル化でブルシットジョブが消えた結果、デジタルに任せる仕事を創れる超一部の人間のみが富ゆく。
どこまで、この議論が正当性を持っているのかを判断できるほど、デジタル化の行先に詳しくない。AIが仕事を奪う、は詭弁であると言われて久しい。一方で、なんとなく暗澹たる気持ちになるのは何故だろう。


京大タテカン文化考 表現の自由の原体験

タテカンが規制されつつある京大で、ゲリラ的にタテカンを立てる活動をやっているサークルを訪ねた記録。
東大でも最近、主張を叫ぶタテカンと、その品性を糾弾するタテカンが乱立している。目を背ける問題を目の当たりにさせる表現は時に残酷で、腹立たしい。それはでも、いつもは目を背けているからだ。他方、品位の問題も、わかる。ただ、字を書き殴った主張タテカンを早朝に見るとふむ、と思う。皆で使う空間を、どう自由に、合意ある形で使うのか。この問題を考えるにあたり、タテカンが乱立しているのは、むしろいいことなのかもしれない。
今、京大でそれはできないだろうから。


メガヒット、あつ森をやってみた 平等で公平な社会の幻

三週間ほど遊んでいると、コミューンを目指したはずの平等で公正な社会は、もはやどこにもない。資本主義が嫌で無人島に移住してきたはずなのに、いつのまにか自分がすべてを金の力で決める島の独裁者になっている。ニューハーモニーはスターリン主義に転化する!

p.45

あつ森とニューハーモニーを重ねながら、うまくいかない社会主義社会を見る話。
この章は、斎藤氏が書くことの妙味が出た章だと思う。結局、DIYをして暮らすだけでは労働のインセンティブにはならず、怠惰になってしまう。村を発展させる駆動力はSNSを通した承認欲求。結局商品自体が資本主義の産物で、あつ森の内部でも労働と権力が生じてしまう虚しさ。
そういえばなぜ、自己満足だけで人間は過ごせないのだろうか。


五輪の陰 成長へひた走る暴力性

2021年の夏に全国公開されたドキュメンタリー映画「東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート」(青山真也監督)には、16年の真冬、菊池さんが引越し代節約のためにリアカーに必死で荷物を載せ、一人で新居まで引いていくシーンがある。

pp.57-8

五輪のために問答無用で立ち退きを強制されたアパートの住人の物語。
五輪までには過去のいじめ問題で大炎上し、退任になった方がいたが、彼と、五輪の陰でものすごい苦労を強いられている人を無視する我々は何が違うのかという問いかけは、非常に的を射ていた。目に見えるか、見えないか。


エコファッションを考える 「捨てない」道の可能性

「結局はリサイクルされないものの方がサステナブルです」

p.116

ミナペルホルンという、真にエコな服を作っているブランドの取材。
リサイクルの実態を踏まえ、リサイクル前提ではなく長く使ってもらうことを前提に生産している。広告・ショー・セールはない。修理を請け負う。

大企業はミナのビジネスモデルを採用できないだろう。これが、無限の成長を求める資本主義の限界だ。二つは相容れないのである。にもかかわらず、両者のいいとこ取りが、個人の努力次第で実現可能であるかのように吹聴する欺瞞こそが、結局「エシカルな暮らし」に私が最もイラつく理由なのである。

pp.117-8

なるほど。要咀嚼。


レッツ!脱プラ生活 不便と向き合う経験

「ひとりひとりの努力が」とか言っても、そもそもできる努力の幅に個人・家庭間で大きな格差があるのだ。

p.126

筆者が実際にプラごみを出さない生活をやってみた回。余裕がないとできない数々の行為。いかにプラスチックが時短に役立っていたのか、もしくはプラスチック回避が難しいほど浸透した現状がわかる。
何が本当のボトルネックか、そしてイノベーションを産むには本当に個人の力に頼る現状でいいのか。


「気候不正義」に異議 若者のスト おかしなことには声を上げる

(注:海外に比べて日本の若者の政治的活動が弱いのは、「学校ストライキ」などを避ける雰囲気を作っている大人が原因ではないかと指摘して)
そのことを反省せず、社会の変化を若者に期待するのは大人の勝手な責任転嫁にすぎない。

p.133

FFF(Fridays For Future Japan)の活動に参加してみて。
僕ももはや若者から大人側に入っていく立場の人間である。Z世代は価値観という指摘を胸に、いつまでもZ世代でいたい(今Z世代(ジェネレーション・レフト)かどうかも含め)。


差別にあえぐ外国人労働者たち 自分事として

私たちはしばしば、正しい法律を作れば世の中はよくなると考えているが、法律だけでは職場の差別はなくならない。社会通念が変わらない限り、

p.141

正しいことを言えば、正しくなるわけではない。プラごみの時とは逆で、草の根も頑張らなければいけない理由がここにありそうだ。


釜ヶ崎で考える野宿者への差別 内なる偏見に目を

個人を炎上させて満足するのでは足りない。差別についてもっと日頃から積極的に学び、自らの加担がないかを絶えず反省しなくてはならないのである。それはしんどい?私たちが楽をしているせいで苦しんでいる人がいるのだとすれば、私は自分の振る舞いを見直す方を選びたい。

p.156

今も進行形、水俣病問題 誰もが当事者

水俣には、栄子さんの思いを引き継ぐ人たちのそこはかとない「赦し」の優しさがあふれていた。

p.164

水俣病の戦いはまだ続いている。
国や周りは変わってくれないことを経験した当事者は、「人は変わらない」と呟く。翻弄されることを「赦し」ながら、「自分を/が」変えていく姿勢がそこにはあった模様。


水平社創立100年 若い世代は今

「差別をはね返せるくらい自慢できる、すてきなまちをつくりたい」

p.170

部落差別の問題と、彼らの新たなまちづくりの取り組み。
部落という、地域性のある差別の影響もあるが、まちづくりと差別解消が繋がるのが面白いと思った。確かに、街の作り方はコミュニティの在り方を規定するから、そういうアプローチもありなのかもしれない。


石巻で考える持続可能な復興 消費とは別の価値観の上に

カーシェアリングでコミュニティを作り出そうとする取り組みで、運転手がボランティア、理由は楽しいから、という事例が紹介された。貨幣交換を基盤にした社会から、それ以外の贈与も含めた社会への飛躍。


特別回 アイヌの今 感情に言葉を

「自分の苦しみは大したことない」、「もっと辛い人がいる」とみんなが我慢したせいで、日本は「沈黙する社会」になってしまったと石原さんは言う。

p.194

「同じような人がいるよ」は救いにいならないし、救いにするためには、恐れず感情に言葉を与えねばならない。そこから、真の救いにつながる連帯が始まり、「同じ人がいるよ」が良い意味となり、違う人も巻き込んでいく。


学び、変わる 未来のために あとがきに代えて

  • 会社や家庭で無償で必要なものを与え合っているのは、すでに「基盤的コミュニズム」(グレーバー)らしい

    • 僕が鍵として気になっている「贈与」と「共有」の類似性

  • 傷つかなさを前提としてきた日本社会

    • 今後、傷ついた人を切り捨てる社会になるのか、癒す社会になるのか?

    • 違いをケアする方法すら忘れた社会で、それを実践しているマイノリティがいる

  • 想像力の欠如

    • 男性社会の現状維持ばかりを無意識に考える人は、想像力欠乏症に陥っている

  • unlearn(スピヴァク)

    • 特権集団だからこそ得たものを一度捨てて、一から学び直す

    • 特権集団が作った社会の課題の解決策は、特権集団外から見出せる

    • NHK地域づくりアーカイブス

  • 共事者という考え方

    • 当事者でなければ語っては/携わってはいけないor当事者の絶対視、どちらも違う

      • 当事者/当事者以外の分断をうむ

      • 当事者を見つけるにあたり、権力が入り込んだり恣意的な操作がなされたりする

    • 当事者ではないから語らないでおこう、はマジョリティの思考放棄であり特権性

      • 語らないことは考えないことにつながり、無意識と忘却につながる

    • インターセクショナルに考えて、連帯する必要性

      • 自身に当事者性を見出すなど

    • 批判されるリスクは思考停止を正当化しない(p.218)

  • 現場に行ってunlearnする重要性

    • 自閉しないため、想像力をつけるため

    • 繋がりを新たに作り、新たな価値観を生み出すため

最初から完璧な人間などいないのだから間違うのは仕方がない。大切なのは誤りを認め、学ぶことだ。

p.218

これが許容されない社会になっているし、それができない大人が多すぎる(僕含め)のだなぁ。


感想雑記

某教授が(斎藤氏がやっている)疎外論は、我々からすれば一昔前の、恥ずかしいものなんですよ、と言っていた。マルクスに疎い僕としては、その発言の真意も真偽は分からない。斎藤氏自体、『人新世の資本論』でバズってから、よく話題に上がるが学者内の評価は又聞きする限り一定しておらず、どのような人なのかは知ることが難しい。

一方で、『人新世の資本論』も読んだ僕としては、この本でも斎藤氏の社会に対する真摯な眼差しを感じられ、非常によかった。学問自体が言説であり、理想の社会に向けた活動の一つとしての側面を持つことは、注意しなければならない。似非科学の発端になるからだ。だからといって、学問が現実の社会との交流を断つこともまた、問題である。

この本を通して、しっかりと手足を動かして社会を変容させようとしている人たちの存在が見れたことも大きい。他国では権利のためにデモが起き、自分の安全を顧みずに戦う人が報道される。一方、どんな法案が通れど、そのことすら知らず、安保闘争があったなんて別の国か?と思うのが今日の日本だと思っていたが、ちゃんと動いている人はいる。自分も、誰か任せにせず、目を逸らさず、強くありたいと思えた。

斎藤氏とは関係ないので、こちらに記載するが、TINAという言葉をこの本を通して初めて知った。マーガレット・サッチャーが"There is no alternative."とよく使って、構造改革を推し進めたことから、彼女はTinaというあだ名で呼ばれていたそうだ。
このTINAの精神は。昨今のビジネス界隈でもある気がする。「ただ批判するのではなく、代替案を出せ」と。しかし、批判ができるかと代替案を出せるか別物のように思う。特に社会的な込み入った出来事についてはそうである。だからこそ、もう少しTINAの精神は弱まってもいいのではないだろうか(もちろん、代替案が出せるに越したことはないし、ビジネスであればその方が良い場合も多い)。TINAが常に求められるのであれば、代替案が思いつく範囲でしか我々は議論をすることができなくなってしまう。

あと、本から漏れ出る斎藤氏の「普通さ」に心動いてしまう自分もいた。あつ森を前に「社会主義ゲーム?!」とワクワク。写真の自分の顔にげんなり。家族に褒められて意気揚々。子育てに難渋。コオロギにテンションが下がり、ファストファッションで一日過ごす。むしろその中でもがく姿自体が、勇気をもらえるものだったと思う。
(聖人でなければ叩かれるTwitter、大変だなぁ…)

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