読書メモ:清水晶子『フェミニズムって何ですか?』(文藝春秋)
フェミニズムとは
そもそも「フェミニストは一人一派」と言われるほどなので、1つの答えを提示することは難しい
女性の生の可能性の拡大を求める思想や営み
改革の対象は社会/文化/制度であると認識すること
あえて空気を読もうとせずに、おかしいことをおかしいと思う(言う)こと
女性は波風を立てるべきではないという社会により、感情も抑圧されている場合がある
フェミニズムはあらゆる女性たちのものであると認めること
女性といっても経験は様々
それぞれを尊重するべき
歴史
【第一波】
相続権・財産権・参政権を求める。女性も男性と同じ人間である。
【第二波】
公的領域は男性、私的領域は女性という区分との闘い。”The personal is political.” 女性は男性と違うところもあり、それも含んで人間として尊重せよ。
【第三波】
ダイバシティーとインターセクショナリティの注目。女性間の差異を考慮して女性を再検討。
ガールパワーの登場。個人の自由が尊重される(e.g. 女性らしい服装を自分のためにして何が悪い)。
ポップカルチャーを通した浸透(e.g. ライオット・ギャルなどのフェミニズム・パンクムーブメント)。
【第四波】
フェミニズムを学んだ世代の活躍。
インターネットの活用(e.g. #MeToo)。
何が個人の自由か?
選んでいるのか、社会的に選ばされているのか
インターセクショナリティとフェミニズム
黒人女性と白人女性の経験はそれぞれ違う。
各種の差別で起こる抑圧の実態を別々ではなく、一緒に考えるには。
インターセクショナルな経験とは、足し算ではない。黒人と女性の経験ではなく、黒人女性としての固有の経験がある。
ある女性の経験が女性を代表する経験とは限らない。さまざまな女性の経験を検討することで、フェミニズムは繊細になる。
リーダーシップと女性
女性とケアを結びつけるのは、本質主義的で問題。一方で、男性的なリーダー像(男性社会が作り上げたリーダー像)を検討し直すことも重要。
I need to take place. 半歩下がっていることを強要されていた女性が、政治の場で当然のように自分の位置を確保することは難しいこと。メルケル首相は各国の男性首相同様の存在感で振る舞っていた点ですごい。
性暴力を考えるために
性暴力とは、性的自己決定権の侵害であること
1を踏まえた上で、性暴力を家父長制の問題と考える必要があること
性暴力をめぐるインターセクショナルな議論が必要なこと
1. 性暴力とは、性的自己決定権の侵害であること
自分の身体と性について決定権を持つのは自分である。「性と生殖に関する健康と権利」の考え方。つまり、許可なくキスすることや国家の強制不妊手術もこの権利の侵害にあたる。
2. 1を踏まえた上で、性暴力を家父長制の問題と考える必要があること
家父長制は再生産能力をコントロールする。性に関する自己決定権自体が、そもそも家父長制の所有物とされてきた。
e.g.白人女性が性暴力を受ける可能性があるから黒人男性を差別する。(白人男性の管理する白人女性の自己決定権の侵害)
3. 性暴力をめぐるインターセクショナルな議論が必要なこと
性暴力の経験は個人的経験。被害者に「家父長制が」などと言っても救いにはならない。一方で、だからといって社会構造の批判をしないのも変化を生まない。
個別的経験を尊重し、それに合わせたケアをすることも、社会構造自体を批判することも、両方が重要。
ケア労働はなぜ軽視されてきたのか
ケア労働は不可欠であるにも関わらず、賃金や社会的地位は低い(コロナ禍で露呈)。
そもそもケア労働=家庭内の家事炊事などを、性別分業制で女性が担ってきた
仕事とみなされないため、仕事をしているのは男性だけになり、指摘領域の男性の支配も強まる
無償で女性の仕事として女性がケア労働をしてくれることは、資本主義社会的にも好都合
現在では、女性の社会進出もあり、ケア労働が外部に有償委託される場合も増えたが、ケア労働の地位は低いまま
女性の領域で無償であった、上記の意識が残ったまま
ケアを正当に評価しないことで、ケアの不可視化ができ、完全に自立した個人という幻想が支えられる
理想の性教育とは
性教育の一環で妊娠のしやすさについてのグラフが掲載された問題
なぜ問題か
(そもそも出典が怪しい上に、恣意的な調整が行われていた)
性教育が伝えるべきことは、「性と生殖に関する健康と権利」が/を尊重される/するべきだということ
自分で性にまつわる行動は決定していい
「性的欲求を女性は持ってはならない」だけではなく、「性的欲求を持つべきだ」からも自由に、自分で決めて良い
家父長制に管理されていた決定権を、女性に取り戻す(リプロダクティブ・ライツ)
相手の性に関する権利・健康に配慮しなければならない
恣意的な情報操作の加わった妊娠に関する情報は、明らかに国家が「性と生殖に関する健康と権利」を管理しようとしている現れ
性教育など、国家が性を管理しようとする動きに注視する必要性
努力して取り戻してきた、身体に対する権利が再度奪われてしまう可能性がある(バックラッシュ)
e.g. アメリカの中絶禁止法
婚姻の問題
婚姻の根幹には女性差別も
昔の結婚は経済的・政治的理由で行われ、女性の意思は無視されていた
現在の日本でいえば、配偶者控除などの婚姻に基づく制度は、助けになる部分もあるが女性の低賃金を維持する効果や、離婚を阻む場合も
女性が不利益を被る制度も
離婚後100日は女性の再婚禁止など
婚姻に関することは、国家が「性と生殖に関する健康と権利」に介入する動きなので、注意が必要
婚姻がセーフティーネットの社会というのは問題がある
「性と生殖に関する健康と権利」や女性の低地位とトレードオフでしか保障を手に入れられないのは、欠陥
一方で、現状はそれに頼らなければいけない女性もいることは事実
婚姻することと、婚姻制度を批判することは両立する
セックスワーカーの考え方と守り方
ワーカー?
性労働に従事する人が「体」ひいては「身体に関する権利」を売っているわけではなく、性的なサービスを提供する労働者であることを明示した表現
労働者として守ることが可能になる
買う側が何をやってもいいわけではない。
労働者としてセックスワーカーを守ろうという動きが始まっている
法規制のあり方の問題
買う側も売る側も罰する(日本の法のモデル)
性交があるかないかが基準になっている
性交しないというていであればいくらでも…
買う側を罰する法の問題(北欧モデル)
逮捕を恐れる客ため、闇営業になってしまう。非道なことが行われても警察に報告もしにくい
セックスワーカー同士の連帯も禁じられている場合が多い
警官が逮捕のためにセックスワーカーを脅すなどの可能性があり、警官がセックスワーカーにとって安全ではない存在に
非犯罪化がポイント
取り締まるのではなく、労働の1つとして国家が管理
ライセンスがなければ営業できない等
フェミニズムの姿勢
反対派
性的収奪である
男性利用者が圧倒的に多い
保護派
禁止すれば地下化したり、公権力に女性が晒される
セックスワークに従事したい女性が安全に従事できるようにすべき
東大と女子。女子進学率の話。
東大の女性は2割
合格比率は男女共に同じ
受験者数が違う
周囲の奨励・抑圧の度合いの男女差
「女子なら短大でも/地元国立でもいいんじゃないか?」等
女子学生自身が東大というパスに魅力を感じない
一流大学進学や理系進学は女性の選択肢を広げる
高収入を得られる確率が高い、社会進出しやすい等の恩恵がある
一方で、「一流大学進学や理系進学」を奨励すればいいだけではない
そのようなライフコースは男性社会が作り上げてきた既存の「成功」に当てはめるだけなのではないか
女性の進学支援と「教育」(やそれを通して目指す「ライフコース」など)の考え直しは抱き合わせで行うべき
教育が与える知識は力強いもの。人生に影響を与える
それがバックグラウンドのせいで阻まれるのはあってはならないこと
バックラッシュの背景(中絶禁止の流れ)
不確実性の高い時代(リキッド・モダニティ)
不満がたまる
ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭
ポピュリズムは家族観やジェンダー観が保守主義と重なる
新自由主義体制下で失業などの不利益を被った男性が、女性や移民のせいだと感じている?
旧来の保守主義と共に、旧来の家族を守れと主張
往々にして「性と生殖に関する健康と権利」を脅かす
男女とは?
生物学的性別(セックス)は社会的区分(ジェンダー)と無関係ではない
現代医学・生物学でも男女は完全には区別できない
生物学自体、学問なので社会的に生まれたもの
女性のセクシュアリティは家父長制社会により管理されていた
人口を管理するために、女性の再生産能力の管理が必要
性的に奔放だったり、性に関心がなかったりすると困る
女性は聖女と売女(娼婦)に分けられがち
聖女とは家庭に入り男性に尽くす女性像
売女は家父長制社会にとっては困る存在ゆえ、社会的地位を落とされている
本来は性に関して決定権があるはずなので、落とされる筋合いはない
それの証拠に、男性が性的に奔放でも批判されることは少なかった(今は変わりつつある)
コントロールされていた女性のセクシュアリティを取り戻す試み
生殖と女性の性を分離させる試み
女性の性的欲望を肯定する
旧来の男女関係を批判する
依存とは?自立とは?から考える家族の形
資本主義社会は女性の収入が少なくなる構造にある
ケア労働の地位の低さ
男性の保護の元で生のあり方の可能性を狭められる
フェミニズムは女性の経済的自立を目指してきた
そもそも、自立していないとみなすことで、一部の人(特に女性)を従属的な地位にとどめる効果が、「自立vs依存」の対立構造にはある。
「自立」自体が恣意的な概念であることに注意しなければならない
自立を解体してみる
車椅子ユーザーは「人の手を借りなければいけない自分を恥じろ」と言われるが、ちょっとの距離を電車やタクシーで済ませる人は依存していると言われないのはなぜか?
依存しているとみなされた人は一部自由を認めてもらえない
権利を主張したら我儘だと言われる。「依存しているくせに。自立した我々は頑張っているのに」
依存に振り分けられるのは、病人・女性・障がい者・生活保護受給者など
老いれば自立を維持することは難しくなる
長寿の時代に、自立を前提とした家族を保持すべきなのか?
できないことを認め、できることをし合って支えていくことが必要
それは、現状の家族とは違う「依存」の仕方になるかも
感想雑記
自身がフェミニミストであるという自覚はあまりない。それは自分の性自認がXジェンダーに近いからだとは思うのだが、単純に人間として当然のことみたいな想いが強い。
だから、「フェミニズムは嫌いだ(興味ない)けど、彼女に『大切にするよ』って言う彼氏」という存在が僕にとってはかなり奇妙に思える。もちろん、フェミニズムも過激なものから間違った理解のツイフェミまで色々いるから、全てを好きという必要はないんだけど(僕だってえぇっと思うことはある)、例えばそれこそ先日の生理の件みたいに「女性である」ということで彼女が不当な扱いを受けたときに彼らはどう思うのか。確かに、女性全員は彼女とは違うから女性全員を好きにはならない=女性という総体を助ける気にはならないだろうけど、一方で女性というカテゴリーから彼女さんが外れることは当面難しい。フェミニズムに積極的に参加する必要はないけれど、積極的に否定したり自分を邪魔するものと考えるということは、そういう彼女(わかりやすいから例示しただけで、別に恋人じゃなくても良い、大切な女性)が不当な不利益を被りうる社会を是認することには加担してしまうよなぁと思う。
ゆえに、当然男女平等問題だけが唯一最優先の問題でもないとも思っている。いろんな問題が結局はこういう感じのことだと思う。無用な理論振りかざしたレスバとかなくなればいいのにな。
これに関しては、先日、かまいたちのチャンネルで似たような議論を見て驚いた。
専業主婦の妻からのプレゼントを喜べるか、という話。自分の給与で買われたことが気になる山内氏に対して、濱家氏が「俺が稼いでいるのは家のお金やからさ」「稼げているのは普段家を支えてくれている妻のおかげ」と述べ、山内氏に「一人で生きてんのかー!」とツッコミを入れていた。
これも、ケア労働の話を踏まえると、倫理や価値観の話ではないことに気づける。そもそも、主婦(主夫)の労働には賃金が発生しない。その代替がいわば、その家庭内労働で支えた夫(妻)が稼いだお金の一部なのではないだろうか。
自立の章が秀逸だった。自己責任論には元々かなり懐疑的に見ているが、「自立」自体が恣意的な線引きであるとのは非常に納得できる説明だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?