見出し画像

法科大学院と法学研究科

法律を勉強する大学院といえば、社会学などの分野も挙げられますが、主には法科大学院(=ロースクール)と法学研究科が頭に浮かぶかと思います。その二つの違いは何だろうか?と思われたことはありませんか?

私は、一方は司法試験合格を目指して勉強するところ、もう一方は研究者になるために修練するところだと思います。

以前ロースクールに在学していた際、私は頻繁に教授を捕まえて話し相手になってもらっていました。一部の専任の先生を除いて、基本的に教授は研究職ですので、自分の研究を進めたいわけなので、私のような学生に捕まるのが必ずしも楽しいわけではないのであります。いえ、むしろ迷惑なのかもしれません。

そんな教授たちの都合にあまり配慮できず、「高い学費を払ってるんだから分からないことはトコトン教えてもらわないと気が済まない」と、どんどこどんどこ教授たちにアポイントメントを取り、質問をぶつけ散らしていたのです。

するとある時、とある法分野の教授に初めてアポイントメントを取った際、「質問事項と分からない理由、自分が考えたこととその根拠の資料をメールであらかじめ添付してから研究室を訪ねてください」と返事をいただきました。「なるほど、きちんと整理してから行けば時間を有効利用できる、いい指摘だな」と思い、教授に質問したいこと、自分が考えたこととその理由を示して、このような理解・考え方でよいかどうか教えを請いたいとメールしました。そして、指定された日時に研究室を訪ねたところ、教授はドアの隙間から頭だけを出して、「資料が足りないのでもっと具体的に添付してください、やりなおしです」と言われ、追い返されてしまったのでした。

「えええ!?これでもまだだめなの!」とショックを受け、とぼとぼと帰宅しました。そして、近所の喫茶店で一服して落ち着きを取り戻した後、「なんかおかしいぞ」とモヤモヤが湧いてきました。あの教授の要求水準をいつも達成しないと質問できないのであれば、1つの質問につきかなりの準備時間を要することになり、限りあるロースクール(2~3年)の時間の中、他にもたくさん必須科目があるのに、聞きたいことを聞ききれないではありませんか。

とはいえ、教授が云わんとしていることも、何となく理解できました。自分の頭でよく考えてから質問するのは、自立した思考を育むために必須です。単に答えを知るだけでは、雑学以上の知識にはなかなかならないし、大学以降の学びでは、そもそも答えがないことがほとんどです。自分でよく考えていくことと、そのためには思考の根拠を整理することは、本来「研究」を目指す大学・大学院での勉強において、当たり前の姿勢なのかなと思います。

そしてしばらくモヤっていたのですが、ロースクールは「研究」を目指すところではないのだという、根本的なことを思い出しました。ロースクールは司法試験と切り離せないところで(なので専門職大学院と言われています)、司法試験に受かるための学びをするところなはずです。そして、司法試験というのは、「法曹としての考え方がしっかりできるか?」ということを問うてくるのですが、法曹というのは究極的には「裁判所はどう考えるか?」というところを説得力の源とするので(それを『正解』とするわけではないですが)、裁判所の考え方≒判例・裁判例を踏まえられているかが評価されるのです。なので、ロースクールでの学びは判例・裁判例(なおかつ複数の法律を対象とします)を中心としたもので、それをよくわかっていればひとまずOKで、それをさらに批判的に見たりとか、外国がどうなっているかとか、さらに深く分析したりするという余裕はあんまりないのです。

件の教授は普段は法学研究科で特定の法律を研究している方で、研究者としての素養を求めていたのではないかな、と思います。それは、複数の法律を同時に勉強して司法試験合格を目標とするロースクール生とは、少しベクトルを異にしているのだと思いました。

つまり、私はロースクール生なので、研究者としての水準には達していなくとも、一生懸命考えたことをぶつけてもいいではないか。そう心に決めて、また教授に迷惑な学生に戻ったのでありました。めでたし。

**********

その後、いろいろ省きますが、司法修習後、法律事務所での勤務を経て、再び大学院に進学し、現在も在学中です。今私が通っている大学院は、主として社会学をテリトリーとして研究するところ。法学研究科ではないのですが、研究をするところという点は同じで、あの時のあの教授に指摘されたこと、いつも念頭において、思考の整理をしています。長い目で見ると、まさかな収穫をロースクールからいただいたわけです。めでたしめでたし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?