3/18日記:慢性的な性格疾患について考えてみる
頭がぼーっとする。
28歳くらいのとき、病院で「あなたは慢性副鼻腔炎なので息がしにくいと思いますが」と言われたことがある。
ぼくはそれまで自分が息がしにくいことなど知らなかったわけで、生まれつき多分そうだったんだと思う。
それはそれで特に治療を急ぐこともないし、今日まで息がしにくいままの状態で過ごしている。
それと同じようなもので、ぼくは有る一定の周期ごとにテンションが上がったり下がったりする。生まれつきの性質。いわゆる躁鬱と言うやつだ。
2日から長くて半年ほど、躁の状態は持続する。躁の期間と比例するように鬱期が訪れる。多分これを書いている今は鬱期だ。
今は会社や家族、友人関係といった『一定の社会と隔絶された空間』を過ごしていて、それのせいなのかより顕著にアップダウンを感じるようになった。とはいえ、感じたところで特にどうなるわけでもない。
自分のことなのでよくわかるのだけど、精神的な病の恐ろしいところは『自身での判断が当てにならなくなる』ところに有る。
「これが欲しい」と思ってしまえば後付のように「これからの時代は〇〇だから今買っておくのは先行投資に当たる」とか
「こうすれば良い」と思えば「統計で見た結果、成功する確率が大きいのでリスクは少ない」とか
別に間違っちゃいないし、実際そうなのかもしれないんだけど、実際にそういった判断を下した数日後に「何でぼくはこんなことしたんだろう」と思ったりする。
わかってる。失敗した。失敗の経験は成功への種。わかる。全部自分が行ったこと。間違いない、反省して次に生かしていこ。
でも「なんでこんなことしたんだろ?」って言う気持ちが消えない。
あたかも二重人格のように。過去の自分の判断があまりにも理解できなくて、全く違う人間の意見みたいに感じる。
最近は自分の中には『ソウ君』と『ウツ君』がいるもんだと思ってる。そんなフシが有る。
ついでにいうと、気心のしれない人前に立つ際には『八方美人のハッポさん』が出てきてくださったりもする。
ぼくの中には三人くらいいる。
とはいえ、みんな多かれ少なかれこういうもんじゃないかなという気持ちも有る。あとついでに『ナル』という女性の人格もひとりいる。
海の波が収まらないように。また、風が未来永劫止まることが無いように。
こういった全ての感情も『自身の中の全て』と受け入れるのも良いのかもしれないと思う。
それと同時に、病院へ行き、精神に作用するお薬をもらい日常生活に波風を立てないように矯正するのも悪くないと思っている。
ぼくはタトゥーには反対していない。
「親からもらった大切な身体に一生消えない傷を」という人もいたりする。
「まだまだ日本では社会的に一般的ではない文化だからはみ出さないほうが無難」というのはわかる。
きっと顔面にタトゥーの入った弁護士が、テレビに出ていればそんなことも言われなくなるだろうと思う。
精神に作用するお薬を使用するのは一体誰のためになるのか。
正しく働くことができるように、という国の意図が見え隠れしているようでならない。
しかし、日本は良い国だから社会保障制度もしっかりしているし、生活保護制度を利用することもできる。
使えない知識は生ゴミのようだが、いざというときには役に立つ。
しかし、年配の女性による生活保護申請を断り、飢えでその女性が死んでしまったときも、実際に市の職員が罰せられたという情報は聞かない。
そんなことはどうでもいい。
貧乏と飢えは精神と身体に直結する問題だから、悪くすれば死ぬ。
あ、今日は一日中スマホでハイキュー読んでました。
文字を書いたので幾分ストレス発散にもなりました。
絶賛好評認知的不協和発動中でございます。おわります。
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