見出し画像

〔ショートストーリー〕スキャンダル

お互いのため、と彼はいつも言っていた。秘書課の私が営業部の彼と付き合っていることは、誰にも知られない方が良いと。
「君は秘書課のエースだからね。バレたら俺が嫉妬されて、蹴落とされるのが目に見えてる。それに君も、せっかく社長に気に入られてるのに、俺のことを知られるのは気まずいだろ?」
だから結婚が正式に決まるまでは隠しておこう、と彼は言っていた。私は喧嘩になるのが嫌で、彼に合わせて「そうね」と言っておいた。

実際は、社長と私はただの上司と部下。私が誰と付き合おうが何の問題も無かった。私が社長付になったのは、秘書としての能力を買われていただけなのに、彼を含む一部の同僚はそう思っていなかったようだ。
そもそも社長には家庭があり、その上大変な愛妻家だ。私はそんな社長を尊敬していたが、お互いに恋愛感情なんて1ミリも無かった。それは今でも変わらない。
それでも彼には、詳しいことを言わずにいた。何となくその方が良いような気がしていたからだが、
「スキャンダルってさ、パッとしない方が、キラキラした成功者を潰すために流すことが多いよね。俺たちはどっちもキラキラしてる側だから、お互いに安心だな」
と、いつも彼の持論を聞かされていたので、それを否定するのが面倒だったのもある。


彼と付き合って、5年目の今日。夜景の美しい最上階のレストランでディナーを終えると、彼は神妙な顔で言った。
「ごめん…別れて欲しいんだ。俺はいつまで経っても、君を幸せにする自信が持てない。ここで一度別れる方が、お互いのためだと思うから」
ああ、やっぱりね、と思った。何がお互いのため、だ。部長の娘との縁談が進んでいることぐらい、秘書課の全員が知っている。秘書課の情報収集力をなめてもらっては困る。
「大丈夫よ。私、あなたがいるだけで幸せだから」
私は敢えて天使のような微笑みを浮かべ、可愛らしく囁いてみた。案の定、彼は困った顔をしている。
「いや、君が幸せだと言ってくれても、俺にはその自信が…」
「あら、部長のお嬢さんは幸せに出来るのに?」
彼の顔が強張る。


「な、何を言って…!ま、まさか俺たちのことを部長に…?」
「さあ、どうかしらね」
私はにっこり微笑む。他の客からは、私が上機嫌に見えたかも知れない。まるでプロポーズされたかのように。
彼は強張ったままの顔に、それでも引きつった笑みを浮かべた。
「けど、そんなこと言うと、お前も困ることになるぞ。絶対、言えるわけないよな?」
『君』が『お前』に変わっている。ここまで分かり易い男だったとは。
「あなた、勘違いしてる。最初からずっと」
私はゆっくりと、優しく言ってやる。ママが子どもに教えるように。
「お互いに、なんて最初から成り立たないの。隠したかったのは、いつもあなただけ。私に隠す理由なんて、最初から無かったのよ」


彼が口を開いたり閉じたりしている。言うべき言葉を探しているのかも知れないが、まるで酸欠の金魚だ。
「だっ…で、でも、社長が…」
「社長はただの上司。私の能力を必要としてくれただけ。昔も今も、それ以上でも以下でもないわ」
赤くなったり青くなったりしている彼の顔を見ながら、私は続けた。
「部長のお嬢さんとお見合いしたって聞いてね、社長にあなたとのことを全て話したの。今ごろは部長の耳にも入っているんじゃないかしら」
「な、何でそんな」
「別に。本当のことを告げただけだけど?」
呆然とする彼に、淡々と答える。
「スキャンダルってね、失うものがない方が強いって言うけど、本当にそんな人いるのかしら。みんな、何かしら失いたくないものはあっても、その優先順位が人によって違うだけでしょ」
まだ彼は呆然としている。もはや、私の言葉を聞く気力も残っていないのだろう。それでも私は続ける。


「あなたはフリーを装って、その立場を楽しんでいた。だからその立場を失うことを恐れていた。そして、私もきっとそうだと思い込んでいたのよね」
つい、私の口から乾いた笑いがもれる。
「確かに、私が社長の愛人だと思っている人もいれば、仕事が出来て男の気配もない、結婚相手にしたいと思ってくれる人もいたわ。だからあなたは、私がそのイメージを壊さないよう黙っていると信じていた。でもね」
私は彼の目を覗き込むようにして、語気を強める。
「私にとって、あなた以上に失いたくないものなんて無かった。情けないことにね」
少しだけ、彼の表情が揺れた。
「だから、あなたを失うんだって分かった時、もう怖いものなんてなかった。スキャンダルですって?私にとっては、ただの純愛だったのよ。ま、他の人が勝手に作った私のイメージなんて、最初からどうでも良かったんだけど」
彼の驚いた顔を見ていると、また笑いがこみあげてきた。この人は、5年も付き合ったのに、私のことなんて全然分かっていなかったのだ。『女はこういうもの』という的外れな固定観念で、私を分かった気になっていただけなのだろう。


付き合い始めた頃から、やたら『お互いに』を繰り返す彼に、違和感はあった。まるで『バレると君も損するよ』と、繰り返し暗示をかけようとしているようで。それでも別れなかったのは、こんな男でも好きになってしまったから。この底の浅い感じを可愛いと思ってしまうのは、私の悪い癖だ。男を見る目がないと周りから言われるのは、当然なのかも知れない。
「で、でも、俺が否定したら?全部お前の捏造だって…」
「あのねえ」
私は溜息交じりで、彼の悪あがきを遮る。
「あなた、自分で言ったこと忘れたの?私は秘書課のエースなんでしょ。最初から違和感があったあなたをバカみたいに信じて、何の保険もかけてなかったと思う?」


息をのむ彼を横目に、私は淡々と続けた。
「付き合い始めた頃から撮りためた写真や録音、相当あるんだけど」
「…写真に録音…?」
「ええ。やっぱり気が付いて無かったのね。ほんと、あなたっておめでたいわ」
私は数枚の写真を彼に渡した。
「これはほんの一部。まだまだあるから、あなたが否定するなら全部公開しても良いけど、その方がダメージが大きいんじゃない?それこそ、スキャンダルもいいところよ」
彼の写真を持つ手が震えている。可哀想に、こんな反撃は想像もしていなかったのだろう。
彼はいつも自信満々だった。私から見ればまだまだ隙が多くて甘かったけれど、そういうところも愛しかったから何も言わずにいただけ。それが彼を増長させてしまったのかも知れない。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
優しい私の言葉にも、彼の返事は無い。


彼からの返事を待たずに、最後に告げておく。
「私は仕事を辞めないし、あなたもクビにはならないと思うわ。もちろん、部長が目をかけてくれることは、もう無いでしょうけど。これからどうするかは、どうぞ自分で決めて」
冷めてしまったコーヒーを流し込むと、私は席を立った。これでこの人ともお別れだ。プライドの高い彼だから、このまま会社にはいられないだろう。辞めてどうするのか、どこに行くのか。もう私が気にすることでは無い。


萎んだ風船のような彼を残して店を出た。エレベーターを降りると、静かに雨が降っている。濡れた歩道に映る灯りは、滲んで複雑な模様を作り出している。
私は淡いグリーンの折り畳み傘を広げ、タクシーを横目に歩き出す。当てなど無いが、もう少しだけ、傘に当たる雨の音を聞く時間が欲しい。しばらくは雨の街を歩いてみよう。せめて、口に残るコーヒーの苦さが、消えて無くなってしまうまでは。

(完)


こちらに参加させていきます。
山根さん、お手数かけますがよろしくお願いいたします。
読んでくださった方、有難うございました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?