人に期待するのをやめた日
まだ期待していたのか?
うん。まだ期待していたようだ。
家族と些細なことで言い争った。
コロナへの捉え方で家族や親戚とどうしても理解し合えないことがある。みんな各々の価値観がある。仕方がない。コロナは本当に人間関係を厄介にして人間関係を嫌にする。
何故他人の価値観にいらだつのか。
それはやっぱり期待していたからなんだろう。
期待しないことは冷たいことか
怒らない人は期待してない人だ。なんていう。
人に興味がないから怒らないんだ。
でもそうなんだろうか。捉え方は様々だろうが。
わたしの場合期待していた時の気持ちは素直に言うと
期待する≒自分に都合よく動いてくれる、変わってくれると思っている。≒相手は自分を喜ばせてくれるはずだ。→相手は自分の言うことを聞いてくれる。コントロール可能だと思っている。
本質的に探っていくと、期待すると言うことは、相手の能力や価値観なんて無視して、相手を自分の思い通りにようとし、そして相手は自分を喜ばせてくれる。と思っている。そしてその望みを叶えられなければ失望したり、怒ったりする。
とても独裁的でもある。
期待している時、むしろ相手を尊重していないのではないだろうか。
期待と信じること
信じることはできる。
信じるとは、その人の能力や価値観に関わらず信じると決断することだ。
相手が期待にそぐわなくても、裏切っても、自分はその人のことを見捨てないと言う選択だ。
わたしにはできそうにはないけれど。
他人は勝手に生きている
もう期待するのはやめよう。
自分にとって自分の利益が大切であるように、
人にどう見られているかが気になってしまうほど自分が可愛いように、
他人もまた本人の利益や喜びのために生きていて、自分が可愛い。勝手な価値観を抱いて、欲望を満たし生きている。
他人はわたし、あなたを喜ばせるために存在はしていない。
自分の人生で自分は主人公であるけれど、
この世界にとって他人はわたし、あなたの引き立て役ではない。各々が主人公だと思って生きている。
デフォルトは
他人はわたしを喜ばせてくれるとは限らない。
他人は全くコントロールできない。
喜ばせるどころか都合の悪いことをいうものだ。
当たり前のことなのに頭から抜けてしまって自分の都合の良いように考えたくなる。
基準は低めにしておきたい。
そうしてたまに自分の思い通りになったのならラッキーだ。でも思った通りにならなくてももともとなのだ。がっかりしなくて済む。
そして期待もしなかった親切は、当たり前ではないことがわかる。
期待は勝手にしてるだけ
わたしも他人に期待しないように
他人の期待にもわたしは無関係だ。
相手のために生きているわけでもないし、相手を喜ばせる筋合いもない。わたしはわたしの都合と勝手で欲望を満たし自分の喜び、幸せを追いかけている。
期待している方が悪い。
怒っている方がわたしにない能力のものを期待して失望して怒っていても本人の捉え方がもはや妄想なのだ。
だからこそのコミュニケーション
コミュニケーションという言葉を見ると気持ち悪くなる。オエ
しかし相手は期待に応えてくれるとは限らないし、自分も期待に応えるつもりもないけれど、
社会はお互いに迷惑をかけながら回っている。
だからこそ気持ちを言葉に変換し、相手に伝えて、交渉する。相手にそれができるか、どこまで譲れて、どこまで譲ってもらうのか。
家族であっても宇宙人のように。
全く別の、未開の、未知の、理解することができないであろう生命体と心を通わせようと努力をするかのように。
期待するのは疲れた。
勝手にしていたのだけれど。
この妄想を勝手に幕引きとする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?