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心地よい難しさー宇野常寛『遅いインターネット』についてー

宇野常寛さんのファンだ。
それも、もう10年ぐらいのファンである。
何のきっかけかはわからないが、本屋で『ゼロ年代の想像力』を見つけた。

その本の帯に書かれていた膨大な作品の中に僕の大好きな作品があった。
特に目に入ったのは、宮藤官九郎の『池袋ウエストゲートパーク』、『木更津キャッツアイ』。
今後変わることのない人生ベスト1&2のドラマである。
さっそく、本を購入し、一気に読んだ。

正直、何を書いているのかほとんど理解できなかった。
『木更津キャッツアイ』のことを評価していることは理解できたが、この本の前提としている議論が僕には、実感としてわからなかったのだと思う。
そして、これが僕が初めて読んだ「批評」の本だったのだ。

わからないけれど惹きつけられる、なぜか心がざわつく。
僕は、それからこの本の前提となっている議論を追いかけるようになった。
東浩紀、宮台真司、大塚英志、小林よしのり、濱野智史、浅田彰、柄谷行人……。
正直、これらの著書は理解できないことも多かったが、とにかく目についた本を読みあさり、そこまでしてようやくわかったのだ。

『ゼロ年代の想像力』すげえ!!

ということに。

「大きな物語」が機能していた時代から「小さな物語」が乱立するポストモダン状況へ。
1995年を境にして、変わる日本の状況。
セカイ系からサヴァイブ系へ。

詳しく説明すると長くなるので、省略する(というか、実際に読んでほしい)が、これらのことが、ここまで鮮やかにわかりやすく論じられ、尚且つ処方箋まで、はっきりと書かれている本は他にはなかった。
しかも、例示が僕の好きなサブカルチャー作品群なのだ。
読み直して、今生きている「この時代」がどういう時代なのか、わかったような気がした。

前置きが長くなった。
『遅いインターネット』は、その宇野常寛さんの最新作であり、決意表明の書だ。

正直に言うと、難しかった。
今回は編集者の箕輪厚介さんとの約束があったからだが、「サブカルチャー」への言及はほとんどない。
前作の『母性のディストピア』が「THEサブカルチャー批評」であったのと対照的だ。
ニューズピックスブックが好きなビジネスマンにはその方がいいのだろうが、
根っからのサブカルチャー大好きマンの僕には、正直キツかった。

「宇野さん頼む。そろそろアニメの話してくれ……」

そんな叫びが通じたのか、パトレイバー2の後藤隊長の名台詞や『アベンジャーズ』のネタバレが唐突に入ってくると嬉しくなる。
「あー、わかるわかる!」となるのだ。

しかし、今回僕が一番面白かったのは、サブカルチャーの「サ」の字も出てこない第3章の「21世紀の共同幻想論」だ。
「共同幻想論」とは戦後最大の思想家である吉本隆明の著作の名前だ。

吉本隆明の著書は一度も読んだことはなかったが、その名前はよく知っていた。
上記で記した批評家たちが、対談などで、必ず一度は口にする名前だったからだ。
そして、大抵、その時は批判的に語られることが多かった。

しかし、宇野さんは、今こそ、吉本隆明の思想を再評価すべきだという。
共同幻想とはなにか。
それは、神や国や魂のように物理的には存在しないが、人々が幻想として共有することによって存在するものだ。
すなわち、「社会を構成する虚構」である。
(僕は、これを読んでいて『サピエンス全史』の議論を思い出した。吉本隆明はハラリの50年前に……。早すぎる。)

吉本隆明は、人々は共同幻想から「自立」すべきだと主張した。
なぜなら、「共同幻想」は、人を時に「戦争」や「大量虐殺」に導くからだ。
それは、20世紀の歴史が証明していた(ホロコースト、南京事件、文化大革命)。

吉本隆明が世界を認識するために主張した三つの幻想がある。
それは、自己幻想、対幻想、そして、共同幻想だ。
自己幻想は自分自身に対する像、自己像のことだ。
対幻想は、1対1の関係について、その二者があなたと私はこのような関係だと信じる幻想だ。
共同幻想は、集団が共有する目に見えない存在のことだ。

宇野さんは、これがSNSの基本構成と合致していると言う。
すなわち、「自己幻想とはプロフィールのことであり、対幻想とはメッセンジャーのことであり、そして共同幻想とはタイムラインのこと」であると。
恐ろしいくらいに腑に落ちる説明だ。
まさか、50年前の思想が、現在のSNSに直結するなんて、誰が考えつくだろうか。
東浩紀さんのルソーの思想をもとにアップデートした政治を考える『一般意志2.0』にも驚かされたが、これはそれ以上かもしれない。

これ以上、ネタバレをしても仕方ないし、僕ごときでは、到底この本を全て解説することはできないので、
続きの議論は本書を読んでほしいが、多分、他の読者も僕と同じように「え、これ難しくね?」となるかもしれない。

たしかに、本書は難しい。
けれど、難しい文章や議論を書いて頭のいいフリをしたいだけの本などでは決してない。
この「難しさ」は心地よい難しさだ。
わからないところがあれば、一旦、立ち止まって、ネットで調べてもいいし、他の本を読むのもありだ。
そして、時間が経ったら、また読んでみればいいのだ。
そういった行為こそが、本書の提唱する「遅く」てもいいから、自分の頭で考えることではないだろうか。


僕が『ゼロ年代の想像力』のすごさがわかるのに、時間がかかったように。
きっと、この本のすごさが、時間をかければ、わかるようになるはずだ。

僕は吉本隆明の本を読んでから、きっと、また本書を読み直すだろう。

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