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嫌われる勇気なんていらない。



「嫌われる勇気」という本が売れているそうです。


ネコチャンはこの本を見たことが無いのですが、「嫌われる勇気」という言い方にすごく違和感を感じました。そして、その言葉から今の世の中と、その問題点について思ったことを書いてみたいと思います。


本の要約はネットでさらっと見た程度ですが、その本の内容とは別に、問題解決のために「嫌われることへの勇気」がそもそも必要なのか?ということを考えて見ます。

考察なんてたいそうなものではなく、その言葉をきっかけにネコチャンが今まで思っていた事の記憶が出てきたので、書き綴っておこうかなと思っただけの記事ですのでそのつもりで読んでいただけると良いかと思います。

(*´ω`*)



人からどう思われるだろうか、ということばかりに悩んでる人にこそ聞いてほしいのですが、

そもそも ネコチャンは人の認識なんて非常にいい加減なものだと思っています。


例えば、たった一瞬会っただけの他人が、あなたのことをその時の印象だけで語ってたとしたら、


「一度会ったってだけで私を分かった氣になるなよ!(`・ω・´)」


と思うのが普通ではないでしょうか。

そりゃぁそうですよね。


自分自身は、好きな相手や嫌いな相手によって見せる顔も違いますし、優しい部分もあれば嫌な部分もあって、色んな面を持っていると思います。

年代によっても全然違うかもしれないし、昔はやんちゃでもいまは成長して全然違う人物かもしれない。


たまたま機嫌の悪い時に会ったのならその人の印象は「怖い人」「余裕のない人」になりますが、機嫌のいい時に会ったなら「人当たりのいい人」「優しい人」となります。

しかも、それだってその人の「主観」に基づいて判断されるわけですが、その「主観」だって人によって生い立ちや性格、経験が違うので全く違うわけです。

なので、一人の人間を見る時100人いれば、100通りの異なった人物像を認識しているという事でもあります。


しかも、自分自身ですら自分自身が何者なのかということを、完璧に定義できる人なんてほとんどいないのではないでしょうか。

おそらくそれは定義することは極めて困難です。


自分を定義しようとすればするほど、自分からは遠いはずの存在、自分の周りを定義していくことになり、最終的には宇宙全てを定義することになります。

例えばネコチャンは、キジトラ模様で絵が好きで、父と母の間に生まれた子で、その親は今は富山に住んでいて、その富山は日本にあって、その日本は地球にあって、その地球は太陽系にあって…と、どんどん細かく定義するほどに壮大で大きくなっていき、最終的にはすべてのものとの相関関係を定義することになります。


でも、みんなそこまで難しいこと考えてなくても、あの人は何となくいい人だとか、付き合いやすいとか、悪いやつだとか、それぞれが実態の良くわからないものに対して、極めて勝手に認識・定義していますよね。

言ってみればそんな他人の評価なんて、実体のあやふやな「幻」のようなものなのです。

まぼろし~٩( ''ω'' )و


ひょっとしたら、自分なんて思い込んでいるだけでそんなものは無いのかもしれませんね。


そこでこうは思えませんか?

そんな、実体のない幻になんで一喜一憂する必要があるの?って。


そこにネコチャンが氣づいた時、そんな「人の目」を氣にして自分が息苦しい思いするのってめちゃくちゃバカらしくないか?って思ったのです。

その「人の目」って、他人の主観ですよ。


例えば、ラーメンが嫌いな人が「ラーメンはまずい」って評価を出しているからって、普通その評価を鵜呑みにはしないでしょう。

ラーメンが好きな人もいれば、どっちでもない人もいるし、たまたま腹が減ってうまく感じた人もいれば、味音痴もいれば、うまいラーメンに嫉妬して酷評する別のラーメン屋もいるかもしれないのです。

当たり前のことに見えますが、これは対人関係でも一緒です。


しかも、今の世の基準(価値観)の大勢というものは、極めて短絡的だったり、物質的だったり、本質をとらえていないものが多いです。

その基礎を形成しているのは、教育やメディアが大半だと思っています。



そして、人は自分が重要だと思っている事しか認識できません。物理的に見えていてもです。

この現象は、心理的盲点と呼ばれています。


(以前記事にこの説明を分かり易く書いたのですが、アカウント事消したので簡略的に説明します)

例えば、今まで興味がなかったのに自分がスポーツカーに関心を持った途端、街中に意外とスポーツカーが走っていることに氣づくという心理的な現象です。

その人の関心にかかわらず、それほどスポーツカーが走っている総量は変わらないし、これまでも物理的に見ていたはずなのですが、その人が興味持った途端に見えてくるのです。

これが、心理的盲点が外れた状態ということです。



なので、例えば外見的な見栄えを氣にしている人はそういう人が形成した世界で。

学歴が氣になっている人はそういう人が形成した世界で。

年収や肩書が氣になる人はそういう人が形成した世界で。

効率や儲けよりも、創造的な楽しさを追求する人はそういう人が形成した世界で。

人との交わりや愛情、自然を大事にする人はそういう人が形成した世界で。


それぞれで、それぞれの世界を作って、その中で大事なものが見え、その中に縛られ、その中で生きていることに氣がつくと思います。



ネコチャンはここで、人がそれぞれの主観でつくった、幻のような認識の世界なんて氣にする必要ないんじゃないの?だって幻だよ。と思ったのです。


何も、他人の迷惑を考えずに、好き勝手にしろと言っているわけではありません。そこは、自分の視点、世間の視点、そしてそれらを客観的に見るもう一つの視点の相関関係を意識することが大事です。


自分が重要だと思ったらそれが自分には重要。


人は人、自分は自分です。


自分は自分の世界で生きているし、他人は他人の世界で生きています。

みんなそれぞれの世界で生きているんです。



でも、今の世の中をみていると一つの価値観が絶対的な力を持っている、もしくは持つように仕向けられた社会システム・教育になっていて、そこから非常に逃れにくくなっているように思います。

本来,一人一人が作っている世界なのに、なぜかそれが集合意識となり、よりその世界が強固で絶対的な価値観となっているのが今の世界です。


若年層の自殺など特にわかりやすいです。

まだ多様な世界(外の価値観)に気づかないまま、今いる学校や狭いコミュニティの世界が全てと思い込み、その世界から抜け出せなかったのかもしれません。


しかし、情報が限られた昔よりはネットの発達で多様性を持った生き方が知られるようになり逸脱しやすくなった感じはあります。



多様性という言葉も、最近は本来の多様性の尊重を無視した、移民というグローバリストの目的達成の為のいいわけに使われています。

外国に目を向ける前に、自分たち自身が価値観の多様性を尊重できてないのに、形だけ移民を受け入れたり選挙権を与えようとしたり、なにが多様性なんでしょうか。笑わせるなと思います。

これこそ、本質を捉えていない、空虚でお花畑な理論です。その政策の先に、本物の文化衝突と、本物の差別が待っていることを皆知りません。その時に犠牲になるのは、誰でもない子供たちなのです。

建前ばかりで、本質を語らない偽善が世の中に何を生むのか、今一度考えるべきでしょう。

(´-ω-`)



さて、その集合意識で形成された今の世の仕組みから外れるものは「不良」「劣等生」であり「いじめの対象」になります。

もちろん、その「不良」「劣等生」という価値観はそのつくられたひとつの世界の判断基準です。

その世界で「不良」と呼ばれたって、別の世界では「優等生」であることだってザラです。価値観なんて、そんなものです。



いつまで、自分に合わない世界に、無理やり自分を閉じ込めているんですか?

(´・ω・`)


しかも、その多くは意図的に作られたものです。

流行にしろ、優劣の基準にしろ、何にしろ。



ここまで読んでいただけたならわかるかと思いますが、

世界は自分でつくることができるのです。


「それに氣づくだけ」なんです。


ネコチャンが、「勇氣なんてそもそもいらない」と言っているのは、これは氣づくか、氣づかないかの違いだけなので、何か勇気を振り絞ってやるような事でも何でもないのです。



ネコチャンは、自然体で生きたいのです。


自分がいいと思うものを追求したい。間違ってると思ったことはしたくない。

人がストレスを感じない生き方って、自然体で生きている時なんです。


意識はそうやって変革しても、実際の物理的システムから逃れるにはそれなりの行動力やお金などの問題も絡んでくるので、そこは別の努力が必要です。

ちなみに、ネコチャンは人里離れた郊外にアトリエを構えて一人で暮らしています。最近は、生活の中にもアナログを取り入れながら暮らすようになり、野菜作りも始めました。(まだ失敗続きだけど)

来春から同じような価値観の友人と、敷地内に小屋を建てようかという計画も練っていて結構楽しいです。


以前までは、生い立ちや職場の環境を随分呪っていた時期もありました。詳細は省きますが、心療内科に通うほど追い詰められていましたが、今はこの考え方を見つけて逸脱し、随分楽になりました。

自分自身の価値観が、自分自身の世界をつくって自分自身を縛り、その内側で勝手に苦しんでいたことに氣づいたのです。


重要だと思う視点が変われば、見えてくる世界も、感じる世界も変わります。


もちろん、実現していく世界も。


今の大勢の価値観に縛られている人たちは、一体どんな世界をつくっていますか?

よく見てください。


人を使い捨て、人を縛り、短期的な物事でしか損得を判断せず、本質を見ず、お金や権威がすべて。

食べ物は毒まみれだし、儲けの為には人の生活の営みも、命も無関係。

何も考えず、疑問を持たず、周囲の世論にながされ、上から言われたことをただ忠実に実行する。

ちょっと自分の意見を主張したり、周りと違うことをすると叩かれる。



その世界が住みやすい人は、その世界にいたらいいんですが、ネコチャンはこんな世界にはもう居たくないんです。

(´;ω;`)



人は、本来ひとりひとり無限の可能性があるんです。

言ってみれば、神様(創造主)みたいなものですよね。


あなたは、あなたが本当に重要だと思うものを大切にしてください。そして、その世界をつくってください。


別に怖いことではありません。

今までだって氣づかないだけで、やってたんですから。



腐りきったこの世界に縛られないでください。



あなたには無限の可能性があるんです。


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