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ゴミを部屋に置いたまま忘れてしまうと土に還ってしまい、何を拾ったのかわからなくなってしまいます⑧


 1991年。UちゃんとK子と私は、拾った大量のビールコンテナと、木材、フェンスの網などで組んだ巨大やぐらの上で、真っ暗な11月の夜空を見あげていました。壁面は合板で塞ぎ、高い天井は、牛の皮膚ほど分厚い、透明なビニールで覆ってありましたが、吐く息は白く冷え込んでいます。けれどそのほったて小屋を埋め尽くすほどの衣類に一緒に埋もれた私たち3人は、強烈な幸福感に包まれて最後の一夜を過ごしていました。


 長い夏休みを目前に控えたこの年の6月。Uちゃんと私は教室の頑丈な机に腰掛けて話し込んでいました。「やっぱ正攻法でいこう」Uちゃんはそんな感じのことを言っていたように思います。

 少し前に計画した「校内の男子トイレにUちゃんが自分で自分の卑猥な落書きをしてまわる」という大胆な作戦は、一度は決行したものの、思いのほか尻すぼみのままうやむやになっていました。でも、私が当時ちょっと好きだった男子生徒、通称「ビッグ・シュー」の授業中の姿をUちゃんが盗撮したビデオテープを私は入手してしまっていて、しかもUちゃんの計らいで彼とその友人と私たち4人で、リヤカーをひいて真夜中のゴミ拾いに出かけもしたので、「ビッグ・シュー」はまさか私が彼の盗撮ビデオを持っているとも知らず、私との距離をほんの僅かに詰めてしまってもいました。

 Uちゃんは、別学部の一学年下で、こっそり「ベルト」と名前までつけているお気に入りの男子生徒と知り合うきっかけを、どうにか今年の文化祭で作ろうとしていました。その男子生徒以外でも、多少気になる相手であれば誰でもそこで声をかけ、こちらの存在に気がついてもらおうという意気込みも感じます。この年の初めUちゃんは私に「カッコよくなって、カッコいいことをしよう」と言っていたのですが、彼女の考えるかっこよさとは「キチガイと思われているが、実は凄いことをして凄いものを作る人」のことで、夜中にリヤカーでゴミを拾ったり、盗撮したり、男子トイレに忍び込んで落書きするなども、そこからくる発想のようでした。でも今度はもう少しメジャーな方法もとり入れようとしたのだと思います。

 私たちは空間演出デザイン科にいて、店舗のディスプレイや舞台デザイン、映画美術などを学ぼうとしていたし、60、70年代の古い映画や音楽やファッションが好きだった、そしてUちゃんのお気に入りの男子生徒もそんなファッションに身を包んでいる。ならば、国分寺にある私たちの憧れのお店「アヌーシュカ」にならって、自分達なりの「アヌーシュカ」のような場所を、文化祭で作れないだろうか。そうUちゃんは考えたようです。

 その年のはじめ頃から、私たちは古着屋だけでなくフリーマーケットやバザーにも積極的に顔を出すようになっていました。あちこちの大きな公園、代々木公園、世田谷公園、明治公園などで開催されるフリーマーケットに足を運んでいましたが、中でも杉並区で毎週土曜の朝から開催される「救世軍バザー」には足繁く通いました。とりわけUちゃんは、ほぼ毎週行っていたように思います。

 「バザー」と聞くだけでなんだか幸せが広がります。晴れた秋の空のキンモクセイのにおいや、屋台のポップコーンやフランクフルト。マリア像のついたネックレス、古いスピーカーから流れる賛美歌、K子の10円の革のロングブーツ。

 K子は子供の頃、教会のバザーでこどもコーナーのスタッフをしていたこともある「バザー玄人」。私もカトリックの女子校で学校のバザーには行っていましたが、そこは見栄っ張りの親たちが寄付した高級そうな妙な皿や置物のようなものばかりだったので、校庭に出る屋台のフランクフルトのほうが楽しみでした。でもK子の教会のバザーは全て50円から300円と破格で、大きなブルーシートに積み上がった巨大な衣類の山に、60年代のものと思わしきワンピースやコートなどが混ざっているのをほじくり出すという本格派。K子はすでに日曜学校に行くのをやめていた大学生の頃でも、バザーにだけはシスターに見つからないようコソコソ行っていたそうです。K子の記憶にいちばん残っている戦利品は、どこかのバザーで10円で手に入れたヨシノヤの古い黒い革のブーツで、ドリームランドの最終日にも履いていたし、ことあるごとに今でも誇らしげに、そのブーツのことを「10円」のブーツと言います。

 そんな私たちを魅了した救世軍バザーは、1865年、産業革命直後のロンドン東部に蔓延していた、酒びたり、犯罪、不道徳、貧困、失業、人口密集、その他の数々の社会悪に対し、救いのために働こうとしたプロテスタントのとある牧師の起こした運動から、公にThe Salvation Army(ザ・サルベーション・アーミー)・救世軍と呼ばれるようになったボランティア組織のバザーでした。救世軍は日本へは明治の終わり頃に来日したイギリス人士官から広まり、現在世界各国で活動しています。杉並のバザーはアルコール依存症者の回復と自立を支援する場として1969年にスタートしたのでした。

 救世軍バザーに真剣に参加する場合、遅くとも開場15分前には現地についていなくてはならず、ギリギリだとだいぶ列ができています。どこからともなく現れる各国の人たちに混じって知った顔もチラホラ。同じ予備校から別の美術学校に行った顔見知り、どこかのライブハウスで見かけた全身古着のバンドマンとその彼女。扉が開くやいなや我先にとなだれ込み、私たちも両腕で各国の精鋭たちを抑え込み込まれ、恰幅の良い黒人女性や鋭い目つきの地元の常連女性に弾かれ飛ばされながら、目当ての売り場へと駆けつけるこの15分、30分が勝負。そこでかなりの目玉商品は消えてしまうと思った方がいいのです。だと言うのに私はよく遅刻してUちゃんに「甘えている」と怒られました。

 場内では音の割れたスピーカーから来場客への感謝の言葉や注意事項などのアナウンス、その遠くにぼんやりくぐもった足踏みオルガンのような賛美歌も流れています。入って左手の靴売り場にまずは突進。ヒールのガッチリと太い、いかにも60、70年代なサンダルやブーツやパンプスが壁にズラリ、コーナー中央のワゴンにも並んでいて、各国のご婦人や近所の主婦、その他出どころ不詳の人たちが狭い売り場で血眼で試し履きをしている中、負けじと目ぼしいものを見繕います。どれも300円から500円、高くても600円出せば革のロングブーツも買えました。数足手に入れ支払いをし、スーパーのビニール袋に詰めてもらったら、次は入り口右側のコーナーに移動。ここは広いスペースにロの字型にぐるりと大きなワゴンが配置され、ワゴン内に服が大量殺戮の後のように積み上がっている婦人服売り場で、ワゴン周囲は1.5メートルほどの幅の通路が設けられ、その周りをさらにラックが取り囲んでいて、ちょっと良さそうなセットアップ、アウターなどがそこにぶら下げてあります。コーナーの3箇所に姿見が設置してあるのですが、その前もいつも争奪戦。プロはざっと全体を眺め、ちょっと気になったものはとにかく両手に抱え込んで姿見の前を陣取る。ほかの客が横から鏡に割り込んできても決して怯まずじっくり試着、ピンとこなかったものはワゴンにリリース、納得がいけば購入、もの足りなかったら再度掘り起こし。基本的には全ての売り場でその繰り返しなのです。試着室も一応ありましたが、並んでいるしまどろっこしく、裸になってしまうほどの着脱がない限りシュミーズ姿になるくらいは厭わないご婦人もいて、姿見の前では色々な人たちが厳しい顔つきで着たり脱いだりを繰り返していました。

 この売り場には常連さんや他のスタッフから「ようちゃん」と呼ばれている、とてもハキハキと返事をする若い女性の売り子さんがいて、私たちはここを「ようちゃんの海」と呼んでいたのですが、ちょっとしたジャケットやベスト、ブラウス、ワンピース、ツーピース、カットソー、Tシャツ、軽めのニットなど、手軽で使い勝手の良さそうなアイテムが「ようちゃんの海」には多く、ワゴンの中は250円から300、400円、アンサンブルでも500円程度。さらに、買おうとするものがあまりにもみすぼらしかったりくしゃくしゃでワケがわからなかったりすると「ようちゃん」ではない優しい売り場の人がさらに値引きしてくれたり、オマケでつけてくれたりもします。また、主な客層、地元の中年女性や海外の人たちなどは当時の私たちが欲しかった60年代や70年代の服にはあまり興味がないのか、えっいいの?というようなものが放って置かれたりもしているのです。でも時々、こちらが興味を持って見ていると急に同じものが欲しくなる人もいるので、一旦捕獲したものをさりげなく横から引っ張られないような用心は必要でした。

 とにかくしばらくの間、私たちは完全にアドレナリンが出まくっており、普段着のほとんどは救世軍、主に「ようちゃんの海」で入手したものになりました。そしてこれが救世軍バザーの入り口付近、全体の売り場からしたら、3割程度のスペースでの話なのです。

 ここに通い詰め、売り場もくまなく把握し、毎回旅行カバンいっぱいの衣類を持ち帰れるようになった頃から、Uちゃんと私たちでこの年の文化祭に立ち上げる「中古屋チェルシー」のビジョンも、朧げながら浮かび上がってくるのでした。


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救世軍HP

https://www.salvationarmy.or.jp/about/history



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