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帰国子女の帰国後の人生(その2)

前回の続き。引き続きアメリカで6年間暮らした中学生が帰国してどのような人生をたどってきたかを勝手に振り返る。

自由の国

アメリカにいるときは(自分で言うのもなんだが)優秀な人間だった。現地校では中学校の年間優秀生徒(?)のようなカテゴリーで表彰されたし、日本語補習校では成績も良く、目立ちたがりでクラスをまとめたがるような存在だった。なんせ現地校はアメリカの田舎に位置する公立中学で、宿題を提出していれば成績をくれるようなところ。日本語補習校もあくまで補習校なのでそんなに厳しい評価が下されるわけはないので成績も甘めなのだろう。日本人の子どもにとってのオアシスのような場所だ。

6年間かけてアメリカの文化に完全に順応したのは間違いない。先生からもクラスメイトからも家族からも抑制されない、自分にとっては最高の環境だった。伸び伸びと暮らせたことがプラスに作用し、勉強にも遊びにも真面目に取り組むことができたのだと思う。

なんせアメリカには(少なくとも私の住んでいた地域では)いじめという概念がない。スクールカーストがはっきりしているのでそもそもカースト上位層と下位層は交流をすることすらしない。上位層のアメフト部員やチアリーダーは部活に精を出し、恋愛を楽しみ、ドラッグに染まっていく。下位層は貧弱体質で勉強も得意ではなく、口下手なので誰かとつるむこともなく数人単位で群れを作ったり独りひっそりと生きていく。だがそれを気に留める者はいない。ちなみに私のようなアジア人の多くは中間層に属していた。

地元に凱旋

帰国が迫る中、前回の記事に書いたとおり私は日本の学校で横行しているいじめに恐れおののいていた。「日本に行ったら大人しくしておこう」と決心した。

中学3年の夏、日本に帰国した。転入先は地元の公立中学。かつての地元に凱旋したということで覚えのある顔が結構いた。6年ぶりの再会である。彼らにしてみればそのほとんどは私が6年の時を経て戻ってくるとは思ってもみなかっただろうし、当たり前ながらみんな別人格になっていた。小3と中3、当たり前である。ほとんど初めましてのような状態で彼らと接することになった。

当の私は委縮しきっていた。いじめを意識していたということもあるが、自らの「異物感」をひしひしと感じていた。クラスは修学旅行も終わり受験に向けてクラス一丸となって士気も高まっている頃に、突如現れたアメリカからの転校生。あと半年ちょっとで卒業というタイミングである。

「あと半年ちょっと、ひっそりと暮らそう」

と感じていた。私の人生は一時休止、高校から再開するんだと決意した。

今でも連絡を取っているクラスメイトはいない。だがなんだかんだ悪くない日々ではあったと記憶している。英語の先生から「俺より発音うまいから」と授業中に音読を強いられたり、クラスメイトから英語で下ネタを言わされるからかいを受けたりはしたが、総じてみんな仲良くしてくれた。ただ思い出は少ない。振り返れば無味乾燥だった。

5年後に行われた成人式に出席することはなかった。成人式の日の夜、当時のクラスメイトからいきなり電話が来た。飲み会の誘いだったのかもしれない。私の存在を思い出してくれたのだろうが、私は電話に出なかった。そこで縁は切れたと思う。

アメリカと比べて日本の学校で感じた違和感で今でも覚えているのは物理的距離の近さ、スキンシップの多さだ。アメリカは日本よりもパーソナルスペースが圧倒的に広い。対して日本は裸の付き合い等が多いからかもしれないが、やたら肩に手を回されたり、じゃれ合いがあったり、慣れるのに時間が掛かった。クラスメイト(男)が突然私のひざの上に座ってきたときは「こいつは正気か」と感じた。別に彼はマイノリティではなかったはずだが、当時は衝撃的だった。

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