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「幸福」を求め「不幸」を避けるゲーム

一般に、「幸福」は「不幸」の反対物だと思われている。

たとえば、私たちは「嫌なこと」があれば「不幸」になり、「イイこと」があれば「幸福」を感じる。
そして、「嫌なこと」が減れば「幸福」に近づき、「イイこと」がなくなれば「不幸」に近づくというわけだ。

ここにおいて、「幸福」と「不幸」とは「同じものの程度差」であり、そういう意味では、熱さと冷たさに似ている。
熱いお湯に手を突っ込めば熱く感じ、冷たい水に手を突っ込めば冷たく感じるが、熱いお湯と冷たい水は全く別のものではない。
それらは水という「同じものの温度差」に過ぎず、根を同じくしている。

「幸福」と「不幸」とは、一見すると正反対に見えるが、その根っこは一つだ。
「同じところ」から出発して、「イイこと」があれば「幸福」になり、「嫌なこと」があれば「不幸」になる。
「同じところ」から始まっても、どちらの方向に進むかによって、最終的には「反対のもの」が生まれてくるのだ。

では、「イイこと」も「嫌なこと」も何もなければどうなるのか?
つまりは、「熱くも冷たくない水に手を突っ込んだら何を感じるか?」ということだ。

「何も感じない」と多くの人は思っている。
だが、実際には「幸福の原因」と「不幸の原因」がともに消えると、そこには「至福」がある。
「イイこと」も「嫌なこと」もなくなると、「何も感じない」のではなく、なぜか「幸福感」を感じるのだ。


◎「幸福」と「不幸」の中で、私たちは絶えず闘い続ける

そもそも「不幸な状態」にある時、私たちは何をするか?

きっと「不幸の原因」を取り除こうとし、「幸福」になろうとして四苦八苦するだろう。
「これがいけない。あれが嫌だ。何とかしなければ」と考え続け、「今いる場所」から逃げ出そうとする。
「嫌なこと」を減らし、「イイこと」を求めてもがくわけだ。

反対に、「幸福な状態」にある時、たとえば、誰かに褒めてもらえたとか、仕事でよい結果を出せたとか、何か「イイこと」があった時には、私たちは上機嫌になる。
内側に高揚感を感じ、「こんな状態がずっと続けばいいのに」と誰もが無意識に願うものだ。

だが、私たちはみんな知っている。
そういった高揚感が決して長くは続かないものであることを。

「いい気分」になるのは一時的で、私たちはすぐに「幸福」から転げ落ちてしまう。
「イイこと」も続けば慣れっこになってしまい、もう高揚感は感じなくなるし、日常の中で「嫌なこと」が目について気が滅入るようにもなっていく。
本当はいつまでも「幸福」でありたいのに、それが叶わないため、苦しむことになってしまうわけだ。

人は、「不幸」からは逃げ出そうとしてもがき、「幸福」にはいつまでも浸っていようとしてしがみつく。
ここには絶えざる「内的闘争」がある
ある時には「不幸」から逃げ出そうとして闘い、また別のある時には「幸福」にしがみつこうとして闘うのだ。

だから、「不幸な人」はもちろん「不幸」だが、「幸福な人」もどこか「不幸」そうに見える。
というのも、「幸福な人」は「幸福であり続けたい」という願望によって縛られており、自分の内側で闘争を繰り広げているからだ。

そこには、「自分の持っているもの」を失う恐れがあり、未来に対する不安がある。
なぜなら、「幸福」と「不幸」とは地続きであり、「幸福な人」は一瞬で「不幸」になることがありうるからだ。
そして、そうした「不幸になる予感」があるからこそ、「幸福」の中にある時こそ、人はそれを失うのではないかという恐れに支配されるのだ。

◎「幸福」と「不幸」の間を揺れる振り子を停止させる

「幸福」と「不幸」との間を行き来するのは、ちょうど振り子の運動のようなものだ。
そこには常に移動があり、私たちは両極の間を揺れ動き続ける。
「幸福」に振れたかと思ったら、次の瞬間にはもう「不幸」の側に振れていたりする。
そうして私たちは少しも「振り子の真ん中」で停止することがないのだ。

だが、もしもこの「幸福」と「不幸」の振り子を停止させることができたなら、そこには「至福」がある。
私はさきほど、「幸福と不幸は根を同じくしている」と書いたが、その「根っこ」というのが「至福」のことだ。
この「至福」という「振り子の真ん中」から外れることによって、「幸福」や「不幸」が生まれてくるのだ。

振り子の運動が止まった時、そこには「イイこと」もなければ「嫌なこと」もない。
それは「何でもない状態」であり、「幸福」でもなければ「不幸」でもないわけだ。

にもかかわらず、なぜかそこには「満たされた感覚」があり、「安らぎ」と「穏やかさ」がある。
それは「不幸」から逃げようとして闘い、「幸福」にしがみつこうとして闘うことからの解放感そのものだ。
もう何からも逃げる必要はないし、何かにしがみつこうとする必要もない。
「闘い」は終わったのだ。

この解放感の中には、「自分が今感じている満たされた感覚は失われることがないだろう」という安心感がある。
というのも、「至福」には原因がないからだ。

「幸福」には原因がある。
何か「イイこと」があるからこそ私たちは「幸福」を感じるのであり、その「イイこと」が失われれば、一緒に「幸福」も失われてしまう。
私たちの「幸福」が消えてしまいやすいのは、それが「原因のあるもの」だからだ。

だが、「至福」には原因がない。
むしろ「イイこと」と「嫌なこと」という「幸福」や「不幸」の原因が全てなくなった時、そこに「至福」がある。

原因がなければ失われることはない。
実際、「至福」は常に何の原因もなく私たちの内側にあるものなのだ。

◎「変えよう」とすることをやめた時、「本当の変化」は自然と起こる

だが、私たちはみんな「至福」を見失って生きている。
それは、私たちが「イイこと」を求め、「嫌なこと」を避けようとして闘い続けているからだ。

私たちは一時いっときも立ち止まることがない。
まさにジェットコースターだ。
上がったり下がったりを繰り返すばかりで、決して停止することがない。

それは動かされ続ける人生だ。
「幸福」という飴と「不幸」という鞭によって行動を決定されており、当人は飴が与えられれば溜め込もうとし、鞭がくれば逃げようとしたジタバタする。
主体的に生きているのではなく、飴と鞭によって外側から絶えずコントロールされているわけだ。

何からも逃げず、何も追いかけたりしないで、ただ「自分自身」にリラックスすること。
それによって「幸福」と「不幸」の間を揺れ動く振り子は停止する。
「幸福」と「不幸」の両方が消えていき、「至福」が内側から輝き出すのだ。

ところで、「至福」と言うと、「とてつもない多幸感」のように思うかもしれないが、実際のところ、それは「何でもない感覚」だ。
「ありのままの自分」にリラックスし、どこにも向かっていない状態。
求めるものが何もなく、「今ここ」において深く満たされた状態だ。

だが、そういったものは私たちの目を引かない。
私たちはもっと派手で目立つものを求めている。
たとえば、社会的な成功や、多くの人からの承認を求めているのだ。

誰も「みすぼらしい自分自身」にリラックスしようとは思わない。
「自分はもっと変わらなければならない」と思い、誰もが目標に向かって走っていく。
そして、それによって自分の足元にある「至福」を取り逃してしまうのだ。

自分を変えようとする必要はない。
今のままで完璧にOKだ。

そのように感じた時、「変化」は自然と起こる。
むしろ、「変えよう、変えよう」と思うことによって、私たちは同じ円環の中をグルグルと回るばかりで、根本的には一切「変化」しなくなる。

「本当の変化」というのは、「変えること」をやめたときに自然と内側から起こるものなのだ。

◎「幸福」を求め「不幸」を避けるゲーム

「幸福」を求めてしがみつくことも、「不幸」を避けようとしてもがくことも、等しく同じ円環の一部だ。
「幸福」と「不幸」の両方を去って、初めて人は「変化」する。

だが、それは別に「どこか遠くに旅に出よう」という話ではない。
ただ、「我が家に帰ろう」ということだ。
反対に、もしも「ありきたりな自分」に満足できないなら、その人はたとえ何を得たとしても惨めなままであるだろう。

しかし、だからと言って、本当は満足していないのに「私は今の自分に満足している」と言い張るのは自己欺瞞でしかない。
そんなことをしても、余計に苦しみを深くするだけだ。

旅に心底疲れた人だけが、家に帰ってホッと落ち着くことができる。
同じように、「幸福」と「不幸」の円環をグルグルと回ることに疲れた人こそが、そこから抜け出した時にはきっと「幸せ」を感じられるだろう。

結局のところ、「幸福」を求めたり「不幸」を避けようとしたりすることそのものにうんざりしている人しか、「我が家」に帰ろうとは思わないものだ。
「幸福を求めてしがみつくから苦しむのだ」とわかった人、また、「不幸を避けようとしてジタバタするから余計に苦しいのだ」とわかった人だけが、「幸福」と「不幸」の両方から抜け出したところに「至福」があるということも理解できるのだ。

だから、「幸福」を求めて「不幸」を避けるゲームにまだ飽きていない人は、それを続けるしかない。
なぜなら、「幸福」と「不幸」の両方に飽きない限り、「至福」は見つかることがないからだ。

「至福」は、「幸福」と「不幸」の両方から降りた時に自然と見つかる。
それは、元から私たちの中に在ったものであり、私たちが見落とし続けていたものだ。

「至福」は欲することによって手に入れることができない。
それはいつも私たちの手の中にあるのだが、求めることによってかえって取り逃してしまう。

反対に、欲することをやめた時、そこに「至福」はある。
「至福」とは、何かを欲することそのものからの解放であり、欲望に衝き動かされることなく「ありのままの自分」にリラックスすることによって、感じることができるものなのだ。