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瞑想的な日常生活についての報告

私はだいたい半年くらい前から日常生活の中で瞑想をしている。
今回は、その過程でどんなことがあったかを書いて、記録として残しておこうと思う。
瞑想を生活全体にわたって実践したいと思っている人は参考にしてほしい。


◎「30分間ほぼ考えずにいること」がスタートライン

まず、瞑想的な日常生活を始める際の目安だが、私が瞑想実践の指針にしている空白JPというサイトでは、「30分間ほぼ考えずにいられたら坐っての瞑想修行は卒業してよい」と書かれていたので、それを参考にした。

ただ、「30分間ほぼ考えずにいる」と言っても、完全に何も考えないというわけではない。
そんなことは不可能だし、目指す意味もない。
多少内側で思考が浮ぶことがあったとしても、それに取り込まれて我を失うことなく、静かな状態を保てていたら、私はそれでよしとした。

しかし、それでも最初はけっこう難しかった。
5分くらいまでなら割と簡単にいけるのだが、そこを越えると途端に難しくなる。
気がつくと思考に取り込まれてしまい、自覚を失ってしまうのだ。
すぐにそれに気づいて戻っては来るのだが、一度自覚を失ったことは事実なので、そういう場合は「失敗」と見なした。

30分間自覚を切らさないこと。
無意識になってどこかへ行ってしまわないこと。
私にとって、それが当面の目標となった。

なにせ、日常生活の中に瞑想を持ち込むとなったら、起きている間ずっと自覚を途切れさせないようにする必要があるわけで、30分さえできないようでは話にならない。
だから、私は挑戦を続け、5分しか持たなかった自覚を徐々に伸ばしていったのだ。

その後、調子が良い時には15分くらいまで持つことも増えてきて、「これならいけるのでは!?」と思った私は、自分の中の集中力をかき集めて30分チャレンジをした。
「この1回で決める!」という気持ちで臨んだ。

その時は「とにかく絶対に気づきを失わない」ということだけ心掛けて、ずっと呼吸に意識を向け続けていた。
意識の中にあるのは呼吸のみで、思考は浮かんでこなかった。

結果、途中で集中力が切れそうになることもあったが、なんとか30分耐え切り、私はついに目標を達成することができた。
そしてそれは、「坐っての瞑想修行のゴール」であり、「次のステップへのスタートライン」だった。

◎瞑想を「当たり前」にしていく

それから私は瞑想を日常生活の中に持ち込むようになったが、最初のうちは坐っての瞑想の延長のようなものだった。
自分がその時している作業に集中することで雑念を払い、無意識状態にならないように注意する生活だ。
何をしている時にも集中力を切らさず、絶えず注意する。
それによって、「気づき」の感覚が持続するようにするわけだ。

だが、限定された30分だけなら持っていた集中力も、生活全部にわたって持続させることはできない。
私も人間である以上、どこかで集中力の限界が来る。
いつまでも集中し続けることなど、誰にもできないのだ。

しかし、そうして集中力が途切れても、思考は浮んでこなかった。
それまでは、「集中して見張っていないと思考に取り込まれてしまう」と思って気を張っていたわけだが、実際には集中がなくなっても思考は現れず、「気づき」を失うこともなかった。
「集中状態」と「瞑想状態」は同じように見えて、実際には別のものだったのだ。

以前は、「集中するから瞑想状態に入れる」と思っていた。
集中するからこそ、思考はなくなり、意識的な「気づき」を持続させられると思っていたわけだ。

しかし、瞑想的な日常生活の中で集中が途切れても、思考は現れず、「気づき」もなくなったりしなかった。
集中はあくまでも「瞑想状態」に入るための補助みたいなものであって、必須のものではなかったのだ。

「集中しなくても瞑想状態に留まることはできる」ということに気づいてからは、「いかに集中しないで瞑想的であるか」ということを工夫するようになっていった。
というのも、集中していると意識が常に緊張状態になってしまうからだ。

集中することは意志を使うことであり、この意志が「真の静寂」を妨げる。
「集中しよう」という意志が、心の中の湖面に絶えず波紋を作ってしまい、本当の意味での「なぎ」が訪れなくなってしまうのだ。

こうして、「いかにして意志を使わずに瞑想状態に入るか」が次の課題になった。
要は、瞑想状態を「ナチュラルなもの」にしようとしたわけだ。

「瞑想に入ろう」と思って入るのではなく、「気づいたら入っている」という状態に持っていく。
これは一見すると不可能そうに思えるが、瞑想的な日常生活を続けていると、自然とできるようになっていく。
瞑想が徐々に呼吸のように自然なものとなり、特別に意識することがなくなっていくのだ。

◎「無努力」の中に落ち着く

瞑想的な日常生活を送るようになった最初のうちは、集中していないと「瞑想状態」を維持することが難しかった。
だが、実践を続けるうちに、集中力を大して行使しなくても、思考のないクリアな状態でいられるように徐々に変わっていった。
「集中」と「瞑想」を分離できるようになっていったのだ。

なお、主観的には「努力している」という感覚はほとんどなかった。
実際には、「努力した」というよりも、「とにかく淡々と生活した」という感じのほうが近い。
「瞑想的でいること」を大事にしながら生活を送っていただけで、特別に何かを頑張ったりはしなかったのだ。

これがもしも「集中力をさらに鍛える」という目標を掲げて実践していたら、話は違っていただろう。
私はもっと努力しなければならず、頑張り続けなければいけなかったはずだ。

だが、私がしたことはむしろ「無努力」を目指すことだった。
「頑張って瞑想しよう」とするのではなく、私はむしろ「頑張る必要もなく瞑想状態であること」を求めていた。
そこでは「いかに努力を落としていくか」が重要で、頑張ってやっているうちはまだまだなのだ。

そもそも、24時間「頑張って」日常生活を送っていたら、どこかで心身を壊してしまう。
そうならないように、「努力」は落として、瞑想を「自然なもの」にしていく必要があったわけだ。

ここにおいて、「起きている間はずっと瞑想し続けなければならないが、努力してもいけない」という条件が課されることとなる。
この条件を念頭に置きながら、ただ淡々と暮らすこと。
それが瞑想的な日常生活だ。

それは全然「特別なもの」じゃない。
たぶん、周りで見ている人からしたら、いたって普通だろうと思う。
実際、私がそんな実践をしていることを外から見ていて気づいた人は、これまでたったの一人もいない。
頑張って何かをしているわけではないので、誰から見てもごく当たり前に見えるのだろう。

そうして「努力」はどんどん落ちていき、逆に瞑想は深まっていく。
というのも、「努力」がなくなることで、「瞑想しよう」という余分な力みがなくなるからだ。
その結果、より深くリラックスできるようになり、ますます内側は静かになっていくのだ。

◎「ハート」との出会い

たしか、瞑想的な日常生活をするようになって1か月半くらいが経った頃のことだったと思うが、この「内側の静寂」が深まったことで、私は「とても穏やかな心地」を体験した。

外側では日常生活を営みながら、内側では静かに安らいでいる。
その感覚はどこか懐かしく、同時に解放的だった。
「自分は自由だ、何も心配することはない」という風に感じ、深く落ち着くことができたのを覚えている。

ちなみに、これは空白JPの山家さんが「ハートの感覚」と呼んでいるものだ。
私の場合、それは胸のあたりに「穏やかな心地よさ」として感じられる。
思考がなくなり、感情が静まって、「瞑想しよう」という意志もなくなっている時、それは現れる。
要するに、「ハート」は内側に何もなくなった「無」の中で感じられるものなのだ。

それまで、「無」というのは「何も無いこと」だと思っていた。
だが、実際には「無」になると「ハート」が現れた。
「無」は全然「無」ではなく、むしろ「ハート」という「有」だった。
「無」の中にはいつも「ハート」があり、それは私に「懐かしく穏やかな感覚」を思い出させたのだ。

その後、実践を続ける中で、「ハート」は「無の中にだけ在るもの」というわけではなく、「常に在るもの」だということが徐々にわかるようになっていった。
「ハート」はいつもここにある。
だが、普段は思考や感情といった雲にさえぎられてしまって見えない。
だから、思考や感情が静かになると、その奥に隠れていた「ハート」が感じられるようになるのだ。

「ハート」は常住不変の私たちの本質だ。
それは常に在り、決してなくなることはない。
ただ思考や感情によって見えなくなることがあるだけなのだ。

この「ハートの感覚」を感じられるようになってからは、瞑想状態に留まることがより一層容易よういになった。
なぜなら、「空っぽ」のままでいるほうが心地よいということがわかったからだ。

「ハートの感覚」は心地よい。
だから、自然とそれを感じていたくなる。
要は、何らかの思考や感情を追いかけるよりも、それらの不在である「空っぽの状態=無」を求めるようになっていくわけだ。

これによって、実践は一気に加速した。
瞑想はますます「無努力」になり、「受動的」になった。
瞑想は「頑張ってするもの」ではなくなり、むしろ「心地よさを味わえるご褒美」みたいになっていったのだ。

◎「ハート」にうんざりしてしまった時のこと

だが、ここで私はつまづいた。
当時の私は寝ても覚めても「ハートの感覚」を味わっていたので、それにうんざりしてしまったのだ。

そもそも、「ハートの感覚」は確かに心地よいものではあるのだが、それほど刺激的ではない。
面白い映画を観る時のようなワクワク感はないし、美味しいご馳走を食べる時のような多幸感もない。
それはどこまでも静かで穏やかな「なぎ」だ。
爽やかですっきりしてはいるけれど、高揚感に欠ける。
だから、「ハートの感覚」に入り浸ることに私は退屈してしまったのだ。

私はむしろ「ハート」から逃げ出すようになっていった。
なぜなら、そこにいても退屈で仕方なかったからだ。

だが、「ハート」から離れても、私には他に求めるものがなかった。
何か「やりたいこと」があるわけでもなく、「欲しいもの」があるわけでもなかった。
「ハート」に留まっても退屈、そこから逃れても退屈。
私は「退屈の海」に溺れていった。

そこからは、3か月ほど実践が停滞した。
瞑想自体が嫌になってしまい、瞑想的な日常生活を放棄していた時期もあったほどだ。

しかし、そうして退屈を感じ続けるうちに、徐々に退屈は溶けていった。
「逃げ出したい」とさえ思っていた「ハート」の中に留まることが、それほど苦ではなくなってきたのだ。

私はもう一度「ハート」に戻ってきた。
そして、「この感覚を大事にして生きていくというのも、悪くないかもな」と思った。

人生には他にももっと刺激的な感情や感覚がたくさんあるが、そういったものを追い求めることにも私はうんざりしていた。
そもそも、快楽を追い求めることには際限がなく、そして、最終的には全ての快楽に私たちは飽きてしまう。
「快楽を追い求めては飽きる」というこのパターン自体に、私は飽き飽きしていたので、今度は「快楽ではない何か(つまりはハート)」を大事にしてみるのもいいかと思ったのだ。

◎私たちが「ハート」を捨てる理由

そう思ってみると、「ハート」に留まることは悪くなかった。
そこにはいつも「穏やかな心地よさ」があり、「根拠のない安心感」があったからだ。
結局のところ、「穏やかさや安心感に大して価値はない」と思うから、私たちは「ハート」を捨てたくなってしまうのだ。

実際、子どもの頃は誰でも「ハート」に留まって生きていたはずだ。
だが、子どもたちは次第に学習していく。
世の中には「ハート」よりもっと刺激的で面白い「おもちゃ」がたくさんあるということを。

ある子どもはゲームに熱中することで「ハート」を忘れるかもしれないし、他のある子どもは美味しいお菓子を食べているうちに「ハート」をないがしろにするようになるかもしれない。

また、「ハート」に留まって得られる安心感より、親や教師から褒めてもらうことで感じる高揚感を求めて、頑張り続ける子もいるだろう。
やがて「ハート」は忘れ去られ、大人になってからは外側の世界にお金や名声を求めて、あちこち走り回るようになっていくのだ。

「穏やかな心地よさ」や「根拠のない安心感」に価値があると本当に思っている人は多くない。
ほとんどの人たちは、もっと別なものを求めている。
もっと刺激的で高揚感を感じられるものを求めているのだ。

私自身もまたそうだった。
私は「ハート」よりももっと刺激的なものを求め、瞑想から逃げ出してしまったわけだ。

だが、最終的には、「ハート」から離れてみても他に行く場所はないと悟った。
快楽を求めることの際限のなさにうんざりしていた私には、もう他に求めるものはなかったのだ。

今は、「ハートの感覚」になるべく留まりながら生活している。
最近は特に「ハート」を意識することもないが、それはいつもここにある。
仕事が忙しくなったりすると「ハート」を忘れてしまうこともあるが、基本的にはいつも「ハート」と一緒にいる感じだ。

もう「ハート」から逃げ出そうとは思わない。
むしろ、「ハート」と一緒に生きていくことで何が見えてくるのかを知りたい。
今はそんな風に思っている。

◎終わりに

途中でも言ったが、瞑想的な日常生活は「頑張ってするもの」ではない。
それはむしろ「努力の放棄」だ。
「いかに無努力で瞑想し続けるか」ということが、瞑想的な日常生活の重要なポイントなのだ。

そして、瞑想が「無努力」になることによって、日常全体を瞑想化できるようになっていく。
そうすると、坐って30分とか1時間とかだけ瞑想していた時とは比べ物にならないくらい、大量の瞑想時間を日々確保できるようになるのだ。

瞑想時間を大量に確保したら何が起こるのかを今は実験中だ。
わかったこともいくつかあるが、まだよくわからないことも多い。
だから、今後も瞑想的な日常生活を続けながら、探求をしていくつもりでいる。

また何か発見や進展があったら報告しようと思う。
今回は以上だ。

それでは、また。