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「私」という機能を錯覚と見抜く

前にもどこかで書いたが、瞑想をするとエゴが強まる。

「逆でしょう?」と多くの人は思うだろう。
「瞑想はエゴを溶かすんじゃないの?」と思うわけだ。

だが、実際には瞑想によってエゴは強まる。
何故かというと、瞑想の実践中には基本的に何かに集中することになるのだが、この集中にエゴが使われるからだ。


◎集中の中でエゴは強まる

たとえば、瞑想中は呼吸や眉間などに集中することになるが、そういう時、私たちは「集中しよう」という意志を持って瞑想に臨む。
だが、この意志というのが厄介で、「集中しよう」と意志して瞑想していると、エゴが働き続けてしまうのだ。

確かに、集中によって無意識の思考は静かになる。
頭の中は「空っぽ」になり、その「空っぽ」を見ているだけの状態になるだろう。
だが、依然としてそこには「空っぽを見ている者」が残っている。

いや、正確に表現すれば、「空っぽを見ている者」というよりも「空っぽを監視している者」といったほうが感覚的には近い。
「空っぽ」の頭の中に思考が出てこないようにエゴは監視を続けている。
そうして、エゴは「今、頭の中は空っぽだ。自分はついに達成したのだ!」とか思ったりするのだ。

瞑想の実践を始める前は、頭の中は無意識の思考でいっぱいであり、私たちはまったく集中していない。
だが、瞑想の実践によって集中力がついてくると、無意識の思考はなくなって、「エゴの天下」が訪れる。
こと内側に関する限り、何でもエゴの思い通りにできるようになるのだ。

集中力が弱かった頃は無意識の思考に邪魔されて、エゴは自由に考えることができなかった。
エゴの声よりも、無意識の思考がわめき散らす声のほうが大きくて、エゴは思うままに振舞えなかったのだ。

だが、集中によって無意識の思考が沈静化すると、エゴは何でも思うように考えることができるようになる。
実践をしている当人の主観的にも、「自分の考えたいことを自由に考えることができる」という感覚が生まれてくる。
自己コントロールの感覚が増してきて、「振り回されている」という感覚は減少していくのだ。

◎「私=エゴ」とは虚構であり、一つの便利な機能に過ぎない

このように、無意識の思考がなくなることで、「私」という感覚が強まる。
「自分で考えて自分で決定している」という感覚が強くなり、何をしていても「自分がこれをしている」という感覚が伴うようになる。
そして、人によっては、ここで「瞑想の実践は終わった」と思う場合もあるかもしれない。

だが、ここはまだ「折り返し地点」だ。
瞑想の実践にはまだこの先があるのだ。

集中力を高めることでエゴが強まり、「私」という感覚は強まる。
「自分の力」を実感できるようになり、「気づき」と共に生きることもできるようになるだろう。
しかし、この「私」は虚構だ。
瞑想によって「私」が析出してきたら、次はこの「私」というものが虚構であると悟る必要がある。

とはいえ、そんなことを悟る必要を感じる人はあんまりいないかもしれない。
実際、集中力が身について「私」という感覚が強くなると、それだけで満足して瞑想をやめてしまう人は結構いるのではないかと思う。
だが、さっきも書いたように、そのプロセスには先がある。
それは、「私」という虚構を悟る段階だ。

そもそも、瞑想によって「私」の感覚(つまりはエゴ)が強まると、その「私」という感覚には非常にリアリティがあるように感じられてくる。
「私=エゴ」こそが「自分の中心」であり、「力の源」であるように感じられるのだ。

しかし、「私」は現れたり消えたりする曖昧あいまいなものだ。
たとえば、面白い映画に熱中している時などには、エゴは消えている。
映画に熱中するあまり、無意識の思考は止まっており、「私」という感覚も忘れられる。
その時、私たちは自覚なく「無我」を体験しているのだ。

「私=エゴ」は時によって出たり引っ込んだりする。
それは決して「絶対の存在者」などではなく、私たちの中に埋め込まれた「一つの機能」に過ぎないのだ。

だが、この「私=エゴ」という機能は非常に役に立っている。
実際、「私」というものがなければ、私たちは自己同一性を保つことができないだろう。
「私は昨日これこれをした。私は一昨日にはこれこれをした。私の青春時代はこれこれで、それはもう全て失われた」と私たちが言えるためには、「私」という感覚が確固としたものとして機能していないといけない。
私たちが、「一個の人間」として生きていくためには、「私=エゴ」がなければいけないのだ。

◎「ただ在ること」によって、「私」は虚構だと理解される

だが、さっきも書いたように、「私」は出たり消えたりする。
それには実体のようなものがなく、あくまで私たちの生活を支えている便宜上の機能に過ぎない。
その証拠に、「私」が消えても「私は在る」のだ。

このことは、たぶんかなりわかりにくいと思うので、伝わるかどうか自信がない。
だから、興味のある人だけついてきてほしい。

まず、瞑想的な生活を続けていくと、「私=エゴ」が存在しない瞬間をたびたび経験するようになる。
内側の思考は静かになっていて、「私」も何も言っていない。
そこにあるのは完全な静寂であり、解放感だ。

そこにおいては、「私」という感覚はなくなっている。
過去の記憶や未来のビジョンとつながった「私=エゴ」という機能は停止しており、世界はただ眼前に開けている。

その時、「私」という感覚はなくなっているのに、「自分は存在している」という感覚が感じられる。
むしろ、「私=エゴ」が機能していた時よりも強く、「在る」という感覚が感じられるのだ。

そこで「自分は存在している」と言う者はどこにもいない。
「私=エゴ」は沈黙しているからだ。
そんな沈黙の中で、ただ「在る」という感覚だけが広がっていく。

ただ、「私」という感覚が強いうちは、「私=エゴ」こそが「存在の中心」であるかのように勘違いしやすいものだ。
だが、「私」が消えても「私は在る」。
この時、同じ「私」という言葉を使うから混乱を招くのだが、他に言いようがない。
強いて言えば、「私=エゴ」が消えても、全てはただ「在る」ということになるかもしれないが、やはりわかりにくいことには変わりないだろう。

ともあれ、この「ただ在る」という感覚に留まる時間が増えてくると、「私」というのが便宜上の虚構に過ぎないということが徐々に理解されてくる。
なぜなら、存在するのに「私」は不要であり、むしろ「私」が消えていたほうが「在る」という感覚は強まることが、経験的にわかってくるからだ。

◎錯覚を錯覚と気づいて生きることで、私たちは自由になる

といっても、「私=エゴ」が機能しなくなるわけではない。
日常的には「私」はあいかわらず「自分の中心」のように感じられるし、「私」が機能しているからこそ、自己同一性を保って「私はこう思う」とか言ったりすることもできる。
もしも「『私』とは虚構だ」と悟っても、「私」が「自分そのもの」であるかのような感覚は継続するし、「私=エゴ」は内側で機能し続けるのだ。

だが、それは錯覚だ。
「私=エゴ」とは「自分そのもの」ではなく、あくまで便宜上の機能だからだ。

このことに気づいているかどうかが、微妙に大きな違いを生む。
錯覚を錯覚だと気づかずに生きるか、「これは錯覚だ」と知ったうえで生きるかによって、人生に対する構えが変わってくるのだ。

たとえ錯覚に気づいたとしても、錯覚それ自体は継続する。
錯覚に気づいた後も、当人はあいかわらず「私」を「自分」のように感じるし、「私=エゴ」と自己同一化して生きるだろう。

だが、錯覚に気づいている人は、本当の意味で「私=エゴ」と自己同一化することはない。
たとえば、もし「私」が苦しむことがあったとしても、それは「私=エゴ」に起こっているものであって、決して「本当の中心」に苦しみが起こっているわけではないと理解できるのだ。

「私=エゴ」はいつも人生を深刻に考える。
そして、深刻に考えるからこそ苦悩し続ける。

だが、「私」が虚構に過ぎないとわかっていれば、人生を深刻に捉えることはなくなる。
そして、もし仮に苦悩しても、苦悩しているのは「自分の中心」ではなく、あくまで「表層」に過ぎないとわかるだろう。

繰り返すが、「私」はなくても全ては「在る」。
「私=エゴ」というのは、あくまでも生活上の便宜のために付け加えられた「便利な機能」の一つに過ぎない。

実際、「本当の自分」というものは、「私=エゴ」に限定されるようなものではない。
もっと広大で自由なものだ。

その「広くて自由なもの」を知るために、瞑想というものはある。
瞑想によってエゴを強め、ついでそのエゴを錯覚と見抜くことで、私たちは「自由」を知ることになるのだ。